大阪での会議を終え、先週末は実家でゆったりと過ごした。
金曜日は歯医者で歯のホワイトニングをしてもらい、
土曜日は天気もよかったので、梅田に出ていろいろやった。
でも、花粉症なのか、鼻がムズムズする。
帰国日は、
両親とマルビルの『桂』でお昼の懐石を頂いたあと、
ヒルトンの『つる家』で1400円もするぜんざいを食べた。
その後、梅田ハービスからバスに乗って関空へと向かった。
実家にいる間は、両親を聖霊と同じものとして接した。
そうすることで、両親の言葉はみな、聖霊の言葉となる。
「向かいの佐藤さんの息子、大学に通ったらしいで。」と父。
「あそこの息子は60歳、今年定年やで。」と母。
「やっぱり、キリンのラガーが一番美味いな。」と父。
「いま飲んでるのはプレミアムモルツです。」と母。
これを聖霊の解釈を通して聴くと、
全ては幻覚で狂っている、となる。(笑)
とまあ、こんな感じで、
聖霊と共に、一日のほとんどを過ごしている僕であるが、
僕の場合は、聖霊をこの世界へ招き入れるのではなく、
僕が決断の主体の位置(ひとつの心)まで戻ることで、
聖霊と繋がることができる。
最近では、
パソコンで資金繰管理表を作成する、といった、
現実的な作業をしている時でも、
決断の主体と聖霊を保持できるようになってきた。
またこの位置まで戻ると、
神から分離できると考えたことが唯一の原因であり、
本当はそんなものは起きてさえいなかった、
ということが、ありありと思い出されてくる。
その一方で、これまで自分が、
いかに、この狂った世界を信じてきたか、
いかに、この世界の幸せを最重要視してきたか、
いかに、神(父)を咎め、裁きたいと思っているか、
を直視させられる。
このように、
天国の想念が感じられるようになってくると、
この世界の幸せがいかに〝インチキ〟であるかを知る。
というか、この世界こそが紛れもない〝地獄〟であり、
すでに自分は地獄にいるのだ、と自覚されてくる。
日本に暮らす、だいたいの人たちは、
〝色々あるけどまあまあ満足〟
〝あのことがなければ幸せ〟
〝基本平安、時々、びゅんびゅん〟など、
自分の人生は、おおむね悪くない、
と思っているのではないだろうか。
だが、これはある意味、自我が生き延びるための、
巧妙な仕掛けである、と断言できる。
ずっと僕達を、檻の中も、まあ悪くない、
状態にしておくことで、
自我の世界(ここ)を存続させることができる。
なので、
この自我の世界から〝本気〟で抜けたいのであれば、
満足、幸せ、平安、の方ではなく、
〝色々〟〝あのこと〟〝びゅんびゅん〟の方を、
直視していく必要がある。
なぜなら、そこから起こる苦しみや葛藤は、いわば、
この世界(自我)への拒否反応、と言えるからだ。
永遠に父が待つ故郷へ帰ってゆくには、赦しが必要であり、
真の赦しは、幻想の外側(忘却のベールの向こう側)
でのみ達成される。
そして、幻想の外側へ出るには、
この幻想こそが地獄だと気づかせてくれるもの、
すなわち、苦しみや葛藤が不可欠なのだ。
まあ、だからと言って、大きな苦しみや葛藤に、
自ら進んで身を投じるのも、ちょっとナンなので、
僕なんかは、スモール地獄経由、でやっている。
テレビに出てくる人や事件、メールに書かれてある一言、
聖霊部長(元コンババ)とのやり取りや、
腕に〝乾燥〟という漢字の刺青を入れ、
汗だくになって歩いている外人さんを見て、
全然乾燥ちゃうやん、とツッコみながら、
一発ドッカーンではなく、チマチマと数をこなしてゆく。
それらをまず、ひとつの原因まで戻し、
自分で神との分離を望んだ、ということを認めたあと、
分離など起きてなかった、という聖霊の声とともに、
ハートの中へと入ってゆく。
そうやって、大阪から香港のアパートに戻ったときには、
夜の11時を過ぎていた。
↓ なぜか急に奈良へ行きたくなった ↓