これまでの赦しは、様々なびゅんびゅんを原因まで運び、
そこから聖霊と共に自我を直視して選び変えていたが、
最近は、決断の主体と常に一体になっている状態から、
世界を観ていられるようになってきた。
なんていうか、決断の主体へ戻る、という感じではなく、
決断の主体と一致している、という感覚なのだ。
その結果、次々と目の前に顕われて来る人や事柄に、
深い感謝と慈愛が溢れ出す、という体験が起きている。
前回〝自分は不幸を幸福だと信じている〟と書いたが、
このことに心底気づいて、もう神の平安だけでいい、
と、そこにカチッ、と一致して日々過ごしていると、
心の中が自然と聖霊に凌駕され、あらゆるものに対し、
無条件に有難いような、わけもなく嬉しいような、そして、
春先などに感じる、ワクワクソワソワ、心躍るような、
なんとも形容しがたいエクスタシーに包まれる。
聖霊の眼差しを通して、いまここに在る兄弟を観る。
すると、一点の咎めも無い無実の存在と認識され、
そこから、感謝と慈しみの気持ちが噴出してくる。
この世的な好い事など何も起きていないにもかかわらず
心は大きな喜びと共に、深い安らぎに包まれている。
これは、仕事でちょちょ舞っている時でさえそうであり、
起きている状況とは全く関係なく起こる。
そうやって、いまこの瞬間だけに感謝し続けていると、
後の事は自然と聖霊が面倒を見てくれるから不思議だ。
〝そう〟なる前に必ず〝そう〟なることが分かるのだ。
要するに、いま在る光への感謝が、未来に延長される。
僕も、日常生活の中で、24時間常に1ミリのブレもなく
〝そこ〟にいられるわけではないが、
少しでもハートに触れ、無罪性を目撃してしまうと、
もう、間違った幸福と同一化できなくなる。
そして、ニセモノの幸福を少しでも信じている間は、
絶対に終われないと解かる。
そんなこんなで日曜日の〝いま〟をゆるゆると過ごす。
トーストを食べながら〝サンデージャポン〟を見たあと、
〝上沼恵美子のクギズケ!〟を見る。
それから、ジムに行こうと思っていたら、
急に睡魔に襲われ、しばしベッドで爆睡してしまった。
後頭部がじんじんと痺れ、ベッドに沈みこむような、
心地よい眠気が、上げ潮となって満ちてくるのを感じる。
過去でも、未来でもなく、まさに〝いまこの瞬間〟に、
真の平安はあるのだと実感しつつ、眠りに落ちて行った。