東京にいる間、なんかおかしいなあ、とは思っていた。
決断の主体から幻想を眺めていても、しばらくすると、
いつの間にか、世界側へと戻されて行ってしまう。
赦しもどこかズレていて、うわ滑った感じがする。
いつもの聖霊兄貴と共に在る感覚も薄い。
そんな違和感を引きずるように、
羽田空港から、香港へ戻るキャセイ便に乗り込んだ。
滑走路が混みあい、飛行機がなかなか離陸しないので、
機内で読もうと持ってきた『奇跡の原理』を開いた。
最初『神の使者』を持ってこようと思ったのだが、なぜか、
『奇跡の原理』が気になり、こちらをカバンに入れた。
この本を読むのは今回で4度目くらいか…。
そして、原理5 のくだりを読んでいるときだった。
〝私たちが、何をすべきで、何をすべきでないか、を、
選択できるのは、私たち自身ではありません。〟
〝私たちが気にかけるべき唯一のことは、
自分の自我を聖霊のもとへ運ぶことのみであり、
赦しの延長は、私たちの責任ではありません。
私たちは自分で延長させようとしてしまうのです。
そこが、私たちがしくじりやすいところです。〟
まだ他にもあるが、これらの文章を読んでいたとき、
目の前に、チカチカと光が走り、ガガーン、っと来た。
〝個の自分〟が決断の主体へ戻ろうとしていた。
わ・た・し・が決断の主体に留まろうとしていた。
ここ最近の心地悪さ、というか〝行ったり来たり感〟は、
肉体の自分も、この幻想の世界の一部であり、
夢を見る者ではなく、見られる夢の一部だった、
ということを忘れたことから来ていた。
なので、
幻想の自分がすることは、ただ直視するだけである。
例えば、元コンババ部長の言動にイラッときたとき、
テレビで紀平選手がトリプルアクセルに失敗したとき、
香港から離れるのが寂しいなあ、と思うとき、
はたまた、結果を出して、ああ幸せ、と感じるとき、
ふっ、と立ち上る〝個の想い〟に反応せず、
聖霊と共に、両手を挙げて、ただ直視してゆく。
何かを〝行なおう〟とするのではない。
世界を実在させてきたものを見つめるだけである。
反応しないとは、世界に反応しないということではなく、
反応する自分をどうにかしようとしない、ということだ。
ただ、湧き上がる毒素を、聖霊と共に観る。
聖霊兄貴お願いします、も、後はよろしく、もない。
もう、一切、自分を動かさない。
そんな感じで、はっと衝撃から立ち直り、機内を見渡す。
笑顔で機内サービスしているCAさん、
真剣な表情でパソコンに向かうビジネスマン、
退屈そうな表情で映画を見ている女性、
僕のシートへ肘を寄せてくる隣の香港人のオッサン、
この世界丸ごと全部、自分が見ている自我だ、と思った。
もちろん、そこには個の肉体の自分も含まれる。
なぜなら、肉体の自分が感じることで、
この幻想の世界を実存させているからだ。
原理5をもう一度読んだあと、しばし目を閉じ、
心地よい良いものも、そうでないものも、
両手を挙げた状態で兄貴と共に観止め、何もしない。
ともすれば出しゃばろうとする個の自分をも捉え、
聖霊を信頼して任せる。
自分が消え、幻影の世界が消えてゆく…。
これって、自己を消し、世界を消してゆく作業なのだ。
この自分が消えた感覚から世界を観ている感じ…。
あれ?ここって、決断の主体ではないか?
ああ、そういうことか。
そこは自分で辿り着く場所ではなかったのだ。
いつもは四時間ほどで香港に着くのだが、
この日は強い偏西風の逆風に煽られ、五時間経っても、
飛行機はまだ台湾の辺りを飛んでいる。
奇跡の原理も読み終え、
それでもまだ香港に着かないので、
『ムーンライト』という、とても切ない映画を観た。
CAがワインもう一杯いかがですか、と訊いてきた。
お願いします、と答えたとき、
僕の心の中にも逆風(向かい風)が吹き始めた。
つづく…。