香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

奇跡講座のエゴ

f:id:shusaku1:20190510003520j:plain

 

連休四日目、今日13日はブッタの誕生日である。

 

この日は、午後三時からトレーナーと筋トレだったので、

 

昼食後にセントラル(香港の六本木)のジムへ向かった。

 

80キロのバーベルでスクワットを5セットこなし、その後、

 

70キロの鉄アレイでダンベルプレスをし、胸を鍛えた。

 

今月は、引き締め月間のため、トレーナーの指示で、

 

ご飯類、麺類、パン類、菓子類、などの炭水化物を、

 

一切断っているので、身体はかなり締まってきている。

 

なんか、身体の事も、赦しの事も、全部、人任せである。

 

 

今日は、連休で時間があるので、じっくり、

 

コースの中のエゴについて書こうと思う。

 

誤解を避けるために先に述べておくならば、

 

以下の文章は、決して、特定の誰かへの攻撃ではなく、

 

あくまで、自分自身を戒めているものである。

 

f:id:shusaku1:20190510003540j:plain

 

コースの学びが進み、理解が深まってきた人が、

 

コース兄弟同士で、または、コース教師と生徒との間で、

 

奇跡講座について話しているときによく起こるのが、

 

相手が述べているコースの内容や考え方について

 

〝解かっている自分〟が〝まだ解かってないあなた〟

 

を見て、そうじゃないよ、と、正したくなる衝動である。

 

 

例えば、ある人が、私はこんな赦しを実践しています、

 

とシェアしたとして、それに対して、そうじゃないよ、と、

 

つい、相手の赦し方を訂正したくなってしまうのだ。

 

 

そんなとき、心の中にふっと湧き起こる、

 

自分の教えていることが正しい、という衝動を見る。

 

自分が教えることで、相手の学びも進む、と思いながら、

 

実は、自分が教えることで自分が分かりたい、

 

と考えている、という、その傲慢さを認めるのだ。

 

 

教える、というと、どうしても分離した個人の自分は、

 

生徒を取って、先生のように教えたくなってしまうのだが、

 

僕の勝手な見解を述べるなら、

 

真の教師はただ、体験をさらけ出して見せるのみで、

 

ただこうである、と語るほかは何もしない。

 

多分それが、教える事と学ぶ事は同じ、の意味なのだ。

 

 

コースが自学自習であるのには、やはり理由がある。

 

どういうことかと言うと、

 

何かをやろうとするとき、または、学ぼうとするとき、

 

僕たちはどうしても〝集おう〟としてしまう。

 

集うと、その中で中心的なリーダーが生まれる。

 

やがて、そのリーダーは、無意識のうちに(←ここ強調)

 

自分の理解を深めるために教えるようになってしまい、

 

その集いは、リーダーのための学びの場となる。

 

 

そして、

 

少し学びの進んだ人が、後進に教える際に起こるのが、

 

自分の学びの進度によって、言うことが変わることだ。

 

 

僕の中で、コース教師あるあるなのが、

 

生徒がAと言った事に対して、教師がそれはBですよ、

 

と訂正したとして、それから数か月が経ったころ、

 

「最近、学びが進んでやっぱりAなんですよね。」

 

と言ったりすることだ。

 

じゃあ、最初にAと言った生徒さんはなんだったんだ、

 

教師より進んでたんじゃん、ということになる。

 

 

なので僕も、他のコース兄弟と話すとき、

 

これは何々なんですよ、とか、それは違いますよ、とか、

 

これはこうこうこうなんですよ、というような、

 

語尾が〝よ!〟で終わるアドバイス的口調には、

 

細心の注意を払うよう気をつけている。

 

 

とは言っても、僕も、つい最近まではバリバリやってた。

 

上辺だけの愛や調和を装おうとする相手に対し、

 

ぐりぐり相手の自我をほじくり出していた。

 

「同じコースをやってんだったら、本音を言えよ。

 

 心の中のドロドロとちゃんと向き合えないんだったら、

 

 コースやってます、なんて言うなよ!」

 

てな感じだった。

 

実際は、自分の中のドロドロを相手を通じて観ようとして、

 

そのドロドロをなかなか出さない相手にイラついていた、

 

だけの話である。

 

f:id:shusaku1:20190512013539j:plain

 

〝これこそが正当な奇跡講座だ〟または、

 

〝あの先生の言っていることが正しい〟

 

というのであれば、

 

自分がそう信じていればいいだけの話であって、

 

誰かに広めようとする必要はないのだ。

 

〝あなた〟が教えてあげようとしなくても、

 

必要な人はちゃんと導かれるし、

 

それが兄弟を信頼する、ということでもある。

 

 

そういう意味で、僕たちは自我の思考体系を、

 

奇跡講座の集いの中でもやっている、と思うのだ。

 

それは特に巧妙で、たちが悪い。

 

もちろん、本人はちっともこのことに気づいていない。

 

集えば分離する。

 

それは奇跡講座の集いであっても例外ではない。 

 

 

そういう意味で、加藤三代子女史のフォーラムなどは、

 

集うことなく、自学自習でありながらも、

 

きちんと学べる場を提供しようとしている点で、

 

画期的だなあ、と思ったりする。

 

 

それから、

 

「別に他のやり方を否定しているのではありませんよ」

 

という免罪符のような言葉にも要注意である。

 

教師は、この言葉の裏で走っている〝想い〟を、

 

先ず正直に観ることが、決定的に重要である。

 

 

コースの中にも、さまざまな〝流派〟(笑)があるが、

 

結局、自分はこうです、と示すだけでいい、と思うのだ。

 

要するに、あるコース兄弟やその他のスピ仲間に対して

 

「それ違うよぉー!」という想いが出てきたとき、

 

〝違う〟のは自分だ、ということである。

 

 

自分の理論が正しくて正統だ、とする、

 

その微妙なコース的エゴを見つめ、聖霊へ運んでゆく。

 

 

兄弟が何を選択しようと、神聖な兄弟自身とつながる。

 

それだけでいい、と思う今日この頃である。