香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

奇跡講座のエゴ

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連休四日目、今日13日はブッタの誕生日である。

 

この日は、午後三時からトレーナーと筋トレだったので、

 

昼食後にセントラル(香港の六本木)のジムへ向かった。

 

80キロのバーベルでスクワットを5セットこなし、その後、

 

70キロの鉄アレイでダンベルプレスをし、胸を鍛えた。

 

今月は、引き締め月間のため、トレーナーの指示で、

 

ご飯類、麺類、パン類、菓子類、などの炭水化物を、

 

一切断っているので、身体はかなり締まってきている。

 

なんか、身体の事も、赦しの事も、全部、人任せである。

 

 

今日は、連休で時間があるので、じっくり、

 

コースの中のエゴについて書こうと思う。

 

誤解を避けるために先に述べておくならば、

 

以下の文章は、決して、特定の誰かへの攻撃ではなく、

 

あくまで、自分自身を戒めているものである。

 

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コースの学びが進み、理解が深まってきた人が、

 

コース兄弟同士で、または、コース教師と生徒との間で、

 

奇跡講座について話しているときによく起こるのが、

 

相手が述べているコースの内容や考え方について

 

〝解かっている自分〟が〝まだ解かってないあなた〟

 

を見て、そうじゃないよ、と、正したくなる衝動である。

 

 

例えば、ある人が、私はこんな赦しを実践しています、

 

とシェアしたとして、それに対して、そうじゃないよ、と、

 

つい、相手の赦し方を訂正したくなってしまうのだ。

 

 

そんなとき、心の中にふっと湧き起こる、

 

自分の教えていることが正しい、という衝動を見る。

 

自分が教えることで、相手の学びも進む、と思いながら、

 

実は、自分が教えることで自分が分かりたい、

 

と考えている、という、その傲慢さを認めるのだ。

 

 

教える、というと、どうしても分離した個人の自分は、

 

生徒を取って、先生のように教えたくなってしまうのだが、

 

僕の勝手な見解を述べるなら、

 

真の教師はただ、体験をさらけ出して見せるのみで、

 

ただこうである、と語るほかは何もしない。

 

多分それが、教える事と学ぶ事は同じ、の意味なのだ。

 

 

コースが自学自習であるのには、やはり理由がある。

 

どういうことかと言うと、

 

何かをやろうとするとき、または、学ぼうとするとき、

 

僕たちはどうしても〝集おう〟としてしまう。

 

集うと、その中で中心的なリーダーが生まれる。

 

やがて、そのリーダーは、無意識のうちに(←ここ強調)

 

自分の理解を深めるために教えるようになってしまい、

 

その集いは、リーダーのための学びの場となる。

 

 

そして、

 

少し学びの進んだ人が、後進に教える際に起こるのが、

 

自分の学びの進度によって、言うことが変わることだ。

 

 

僕の中で、コース教師あるあるなのが、

 

生徒がAと言った事に対して、教師がそれはBですよ、

 

と訂正したとして、それから数か月が経ったころ、

 

「最近、学びが進んでやっぱりAなんですよね。」

 

と言ったりすることだ。

 

じゃあ、最初にAと言った生徒さんはなんだったんだ、

 

教師より進んでたんじゃん、ということになる。

 

 

なので僕も、他のコース兄弟と話すとき、

 

これは何々なんですよ、とか、それは違いますよ、とか、

 

これはこうこうこうなんですよ、というような、

 

語尾が〝よ!〟で終わるアドバイス的口調には、

 

細心の注意を払うよう気をつけている。

 

 

とは言っても、僕も、つい最近まではバリバリやってた。

 

上辺だけの愛や調和を装おうとする相手に対し、

 

ぐりぐり相手の自我をほじくり出していた。

 

「同じコースをやってんだったら、本音を言えよ。

 

 心の中のドロドロとちゃんと向き合えないんだったら、

 

 コースやってます、なんて言うなよ!」

 

てな感じだった。

 

実際は、自分の中のドロドロを相手を通じて観ようとして、

 

そのドロドロをなかなか出さない相手にイラついていた、

 

だけの話である。

 

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〝これこそが正当な奇跡講座だ〟または、

 

〝あの先生の言っていることが正しい〟

 

というのであれば、

 

自分がそう信じていればいいだけの話であって、

 

誰かに広めようとする必要はないのだ。

 

〝あなた〟が教えてあげようとしなくても、

 

必要な人はちゃんと導かれるし、

 

それが兄弟を信頼する、ということでもある。

 

 

そういう意味で、僕たちは自我の思考体系を、

 

奇跡講座の集いの中でもやっている、と思うのだ。

 

それは特に巧妙で、たちが悪い。

 

もちろん、本人はちっともこのことに気づいていない。

 

集えば分離する。

 

それは奇跡講座の集いであっても例外ではない。 

 

 

そういう意味で、加藤三代子女史のフォーラムなどは、

 

集うことなく、自学自習でありながらも、

 

きちんと学べる場を提供しようとしている点で、

 

画期的だなあ、と思ったりする。

 

 

それから、

 

「別に他のやり方を否定しているのではありませんよ」

 

という免罪符のような言葉にも要注意である。

 

教師は、この言葉の裏で走っている〝想い〟を、

 

先ず正直に観ることが、決定的に重要である。

 

 

コースの中にも、さまざまな〝流派〟(笑)があるが、

 

結局、自分はこうです、と示すだけでいい、と思うのだ。

 

要するに、あるコース兄弟やその他のスピ仲間に対して

 

「それ違うよぉー!」という想いが出てきたとき、

 

〝違う〟のは自分だ、ということである。

 

 

自分の理論が正しくて正統だ、とする、

 

その微妙なコース的エゴを見つめ、聖霊へ運んでゆく。

 

 

兄弟が何を選択しようと、神聖な兄弟自身とつながる。

 

それだけでいい、と思う今日この頃である。