連休四日目、今日13日はブッタの誕生日である。
この日は、午後三時からトレーナーと筋トレだったので、
昼食後にセントラル(香港の六本木)のジムへ向かった。
80キロのバーベルでスクワットを5セットこなし、その後、
70キロの鉄アレイでダンベルプレスをし、胸を鍛えた。
今月は、引き締め月間のため、トレーナーの指示で、
ご飯類、麺類、パン類、菓子類、などの炭水化物を、
一切断っているので、身体はかなり締まってきている。
なんか、身体の事も、赦しの事も、全部、人任せである。
今日は、連休で時間があるので、じっくり、
コースの中のエゴについて書こうと思う。
誤解を避けるために先に述べておくならば、
以下の文章は、決して、特定の誰かへの攻撃ではなく、
あくまで、自分自身を戒めているものである。
コースの学びが進み、理解が深まってきた人が、
コース兄弟同士で、または、コース教師と生徒との間で、
奇跡講座について話しているときによく起こるのが、
相手が述べているコースの内容や考え方について
〝解かっている自分〟が〝まだ解かってないあなた〟
を見て、そうじゃないよ、と、正したくなる衝動である。
例えば、ある人が、私はこんな赦しを実践しています、
とシェアしたとして、それに対して、そうじゃないよ、と、
つい、相手の赦し方を訂正したくなってしまうのだ。
そんなとき、心の中にふっと湧き起こる、
自分の教えていることが正しい、という衝動を見る。
自分が教えることで、相手の学びも進む、と思いながら、
実は、自分が教えることで自分が分かりたい、
と考えている、という、その傲慢さを認めるのだ。
教える、というと、どうしても分離した個人の自分は、
生徒を取って、先生のように教えたくなってしまうのだが、
僕の勝手な見解を述べるなら、
真の教師はただ、体験をさらけ出して見せるのみで、
ただこうである、と語るほかは何もしない。
多分それが、教える事と学ぶ事は同じ、の意味なのだ。
コースが自学自習であるのには、やはり理由がある。
どういうことかと言うと、
何かをやろうとするとき、または、学ぼうとするとき、
僕たちはどうしても〝集おう〟としてしまう。
集うと、その中で中心的なリーダーが生まれる。
やがて、そのリーダーは、無意識のうちに(←ここ強調)
自分の理解を深めるために教えるようになってしまい、
その集いは、リーダーのための学びの場となる。
そして、
少し学びの進んだ人が、後進に教える際に起こるのが、
自分の学びの進度によって、言うことが変わることだ。
僕の中で、コース教師あるあるなのが、
生徒がAと言った事に対して、教師がそれはBですよ、
と訂正したとして、それから数か月が経ったころ、
「最近、学びが進んでやっぱりAなんですよね。」
と言ったりすることだ。
じゃあ、最初にAと言った生徒さんはなんだったんだ、
教師より進んでたんじゃん、ということになる。
なので僕も、他のコース兄弟と話すとき、
これは何々なんですよ、とか、それは違いますよ、とか、
これはこうこうこうなんですよ、というような、
語尾が〝よ!〟で終わるアドバイス的口調には、
細心の注意を払うよう気をつけている。
とは言っても、僕も、つい最近まではバリバリやってた。
上辺だけの愛や調和を装おうとする相手に対し、
ぐりぐり相手の自我をほじくり出していた。
「同じコースをやってんだったら、本音を言えよ。
心の中のドロドロとちゃんと向き合えないんだったら、
コースやってます、なんて言うなよ!」
てな感じだった。
実際は、自分の中のドロドロを相手を通じて観ようとして、
そのドロドロをなかなか出さない相手にイラついていた、
だけの話である。
〝これこそが正当な奇跡講座だ〟または、
〝あの先生の言っていることが正しい〟
というのであれば、
自分がそう信じていればいいだけの話であって、
誰かに広めようとする必要はないのだ。
〝あなた〟が教えてあげようとしなくても、
必要な人はちゃんと導かれるし、
それが兄弟を信頼する、ということでもある。
そういう意味で、僕たちは自我の思考体系を、
奇跡講座の集いの中でもやっている、と思うのだ。
それは特に巧妙で、たちが悪い。
もちろん、本人はちっともこのことに気づいていない。
集えば分離する。
それは奇跡講座の集いであっても例外ではない。
そういう意味で、加藤三代子女史のフォーラムなどは、
集うことなく、自学自習でありながらも、
きちんと学べる場を提供しようとしている点で、
画期的だなあ、と思ったりする。
それから、
「別に他のやり方を否定しているのではありませんよ」
という免罪符のような言葉にも要注意である。
教師は、この言葉の裏で走っている〝想い〟を、
先ず正直に観ることが、決定的に重要である。
コースの中にも、さまざまな〝流派〟(笑)があるが、
結局、自分はこうです、と示すだけでいい、と思うのだ。
要するに、あるコース兄弟やその他のスピ仲間に対して
「それ違うよぉー!」という想いが出てきたとき、
〝違う〟のは自分だ、ということである。
自分の理論が正しくて正統だ、とする、
その微妙なコース的エゴを見つめ、聖霊へ運んでゆく。
兄弟が何を選択しようと、神聖な兄弟自身とつながる。
それだけでいい、と思う今日この頃である。