前回の記事で書いた、どんなときも、間断なく、
聖霊を憶えている、という心の訓練は、
僕にさまざまな変化をもたらした。
そうは言っても、僕もまだまだ修行の身であるため、
忘れては思い出し、離れては戻り、の繰り返しである。
それでも、自分は肉体ではなく〝心〟だったんだ、
という自覚の中で、自分というアイデンティティが、
肉体から心へと、移行し始めたのを感じている。
というのも、
以前、このブログでも書いた〝自我の逆襲〟以降、
心の中へ戻ることが怖くなっていた時期があり、
自己概念B(肉体)レベルで大放出をしてしまっていたり、
どこか、うわ滑ったような赦しをしていたりした。
まあ〝ドカびゅん〟マックスの最中は、
外に原因を見いだすこともできず、また、
誰のせいにもできない恐怖や怒りにただなす術もなく、
その〝自我の抵抗〟が落ち着いてからも、
無意識のうちに古傷が疼くのを避けるようになっていた。
しかし、四六時中、聖霊を想い出していることで、
自我に警戒をするようになったからか、
自分のアイデンティティが肉体から心に移行すると、
徐々に、肉体が自分だ、という感覚が薄れはじめ、
逆に、自分は肉体ではない、という感覚が強くなった。
それでもまだ、僕の心の中(自己概念A)は、
間違った心の状態なのだけれど、
そんな心の中を直視して赦せるようになってきた。
これからは、こうやって、聖霊兄貴と共に、
心の中から世界を眺めてゆくうち、いつかきっと、
決断の主体にまで運ばれていくのだな、と確信した。
人や、動物や、街の風景や、自然の風景など、
世界が全て後ろ側(心の中)へ返されてゆく。
やがて、自分が肉体ではなく、心だった、と自覚すると、
この兄弟も、あの兄弟も、みんな肉体じゃなかった、
というふうに知覚されてくる。
感覚的に言うと、自分の背後と、他者の背後、つまり、
自分の心の中と他者の心の中は後方で繋がっており、
同じひとつのものだった、と感覚化されてくる。
そうなると、肉体としての誰かがやっていることを見て、
この人はこういう所が間違っている、とか、
あの人はまだ分かっていない、と思うことに、
一体、何の意味があるというのだろう。
だって、その人が本当にどうなのか、なんて、
誰にもわからないし、誰かを見て何かを想ったとすれば、
それは自分の心の中を通して見た他者の姿のだから、
それはまぎれもない〝自分の姿〟である筈である。
しかし、僕も、そんなに偉そうなことは言えない。
それでも、相手を批判したくなる衝動は湧いてくる。
ただ、聖霊を感じながら生活している中で、
そういうことに、少しずつ気づけるようになってきている。
というわけで、明日から山梨の甲府である。
月曜日と火曜日の午前中を甲府で過ごして、
午後から東京へ移動をする。
明日日曜に日本へ移動するので、休日出勤である。
これで、未消化の代休が4日になった。
休みを取らないと元コンババ部長がうるさいので、
それで、来月、ごそっと連休を取ろうと考えている。
今回の飛行機は、行きも帰りも日本航空。
JALは、即席ではないお味噌汁が出る。
というわけで、
日本では、美味しいものをいっぱい食べながら、
これらの、
起っているように見える心の中の出来事を見つめ、
聖霊にごそっと捧げてゆくのだ。