👆 梅田で革靴の底を張り替えてもらう👆
新型コロナウィルスの感染者が中国で拡大している。
「ほんまに、安倍のオッサンは何やってんねん。
即刻中国人全員を入国禁止にすべきやわ…。」
「そこまでして中国人に金使うていらんわ。ほんまに」
「あんたも、香港で、コウモリとか、ネズミとか、
へんなもん食べてるんちゃうやろな!」
母親はニュースを見るたび、中川家がやってる、
大阪のオカンのコントのようにうるさい。
僕は、2003年に香港で大流行したSARSを、
現地で体験しているので、さほど驚かない。
で、ふと思い立ち、当時、ワードで綴っていた、
2003年4月あたりの日記を見返してみると、
なかなかセンチメンタルな心情が吐露されていた。
その頃、僕は今とは別の会社で人事部長をしており、
香港現地法人に駐在する駐在員であった。
まだ、30歳そこそこで、中国工場を立ち上げ、
香港事務所の大規模リストラを担当していた。
SARSで不景気のどん底にもかかわらず、
従業員を解雇せねばならないポジションだった。
まだスピリチュアルのスの字も知らない頃である。
その当時の日記を下記に掲載する。
当時の僕を尊重し、原文ママとする。
2003年4月8日(火曜)雨 午後11時10分
外はずっと雨が降っている。
SARSの病毒が香港に蔓延し、一ヶ月が経った。
日本人駐在員の奥さんたちはみな日本へ帰国し、
中国にいる駐在員もいなくなってしまった。
ただ一人の日本人である現地採用の水野さんは、
来週には解雇され、いなくなってしまう。
もちろん、解雇通知を出すのは僕だ。
そうなると会社には僕と8人の香港スタッフだけとなる。
昨日、会社のあるビルと、自分が住んでいるアパートから
SARSの病人が出た。会社は僕に避難勧告を出した。
それで今日、小切手長と社判を持ち出した。
毎日、香港で出た死者の数を本社へ報告する毎日。
感染を恐れた母は帰ってくるなという。
悲しかったが仕方がない。
ミッドレベルのアパートへ戻ると、
宇宙服のような防護服を着た人たちが、
背中にタンクをしょってアパートを消毒していた。
保安員に訊けば、アパートの住民全員を、
10日間の自宅軟禁にする通達が出される予定だという。
急いで身の回りの品をまとめ、アパートを脱出した。
タクシーで、会社契約のホテルへ向かう。
人気のないホテル、そぼ降る雨、肌寒い室内。
テレビではレスリーチャンの自殺を報道していた。
あさってはリストラを敢行する。
アメリカはイラク(原文ママ)と戦争をしている。
寂しさが身にしみるとはこのことだ。
これから一体どうなってしまうのか。
空港を封鎖するという噂は本当なのか。
レスリーの死に涙がこみ上げてくる。
さびしい四月。だれもいない四月。独りぼっちの雨の夜。
👆〝哥哥〟(兄貴)と呼ばれ香港人から親しまれていた👆
あの当時、香港だけで700人くらいの死者が出た。
激症化したあと回復した人も、肺の機能が低下し、
今でも重い後遺症に苦しんでいる人が多い。
ウィルスって、人と人とを隔離させてゆく。
自分の肉体をウィルスから守るために、
どんどん孤独になっていったのを覚えている。
コロナウィルスは、気温が摂氏20℃から25℃、
湿度が70%くらいで最も活発化するため、
多分、今後数か月は拡がりを見せるだろう。
でも、ようくようく、見てみる。
いま、ここにいる自分はウィルスに感染しているのか。
その恐怖という思考は誰が考えているのだろうか。
もともと、ウィルスなど実在しているのだろうか。
本当は、何をウィルスと勘違いしているのだろうか。
それになにより、
これは本当に起こっていることなのだろうか。