👆 歯医者の受付の窓から 👆
今日は近所の歯医者へ、
歯のクリーニングとホワイトニングをしてもらいに行った。
歯医者がちょうどゴールドジムの隣にあるので、
ジムでガンガン筋トレをした後、歯医者へ行った。
通常は二回に分けて施術をするらしいのだが、
すぐ香港へ帰ってしまうので、一回でお願いした。
結果、3時間ほどかかり、診察台から降りた瞬間、
足がふやふやして、歩けなかった。
ホワイトニングは、回を重ねるごとに効果が出るらしく、
今回で三回目の僕の歯は、かなり白くなっているという。
でも、施術後24時間はコーヒーやお茶など、
色の濃い飲み物は禁止なので、今日はワインも我慢だ。
ホワイトニングは、歯にブリーチの液を塗ったあと、
20分ほど乾燥器で乾かし、それを三回繰り返す。
要は髪の毛のブリーチと同じ原理である。
歯科技工士のお姉さんもとても丁寧にやって下さり、
さして苦痛を感じることもなく〝愛〟になって過ごした。
暖かい診察台の上で、ブランケットにくるまり、
〝神の愛=自分〟状態になっていたとき、
唐突に、また小説を書きたい、と思った。
そして、ああそうか、と気づきが〝上がって〟きた。
👆 このうらぶれ感がたまらない! 👆
普段の日常の中で、
見るもの、聞くもの、考えるものの裏にある神に気づき、
その神の想いこそが自分だった、と、理解が起こるときの、
〝神の想い〟は、〝好き〟という思いの中にある、
ということである。
僕は小説を書くのが好きである。
どうして好きか、と言われても、答えようがない。
売れっ子作家になって印税で暮らしたい、とか、
自分の作品を本というカタチで世に残したい、とか、
そういうスケベ心も少しはあるかもしれないが、
たとえ、世に出なくても、小説で食べてゆけなくても、
やっぱり、そんなことを超えて書くことが好きなのである。
自費出版で少数の人に読まれるだけでハッピーだ。
この説明できない、ただ〝好き〟という思い、
これこそが神の想いである。
👆 どやっ!👆
恋人やパートナーを愛してる、という思いも、
なんで、その人が好きなのか、と訊かれれば、
優しいから好き、とか、ルックスがいいから好き、
と説明するだろうが、本当はそんなの後付けで、
根底に〝好きで好きでたまらない〟という、
強烈な愛の衝動が流れているから好きなのだ。
それについて、説明なんかできない。
別の例を挙げると、
かっこいいから、尊敬されるから、パイロットになった、
ではなく、
なんでかわからないけど、何より飛行機が大好き、
空港に来ただけで胸がワクワクする、
というパイロットの人は神に気づいている。
または、なにしろ自分は怪獣が好き、
寝てもても覚めても怪獣のことを考えている、
理由なんかない、というマニアの人、そして、
あのアイドルを推すのに命を懸けている、というオタク、
など、
この理由のない好き、という思いこそが神の愛であり、
神が僕たちを好き、という思いと全く同じものである。
この〝説明できない好き〟に気づくこと、
それが神に気づく、ことの本質である。
逆に言えば、
説明できる〝好き〟は、神ではないということだ。
なので〝わけもなく強烈に好き〟を持っている人は、
神の愛に気づいていると言える。
自分が、人や、趣味や、仕事を、好きと思っている
それ以上に、自分は神から愛されている。
それがわかると、何があってもなくても幸せ、
お金があってもなくても常に平安、となる。
ていうか、心が実質の方を見はじめると、
おのずと全自動シュワシュワも変化し、
現実も変化せざるを得なくなる。
たとえ、思考の自分が拒否したいようなことが起こっても
ここで起こっていることが愛であり完ぺきだ、とわかる。