今日は、小切手を入れたり、現金を引き出すために、
東京三菱UFJ銀行、みずほ銀行、香港上海銀行、と、
三軒も銀行のはしごをした。
その後、チョンキンマンションにある両替屋で、
引き出した現金10万香港ドルを、人民元に両替した。
なぜなら、この両替屋は、少しだけレートがいいから…。
90年代、当時貧乏留学生だった僕も、
ド田舎の広州から香港へ買い出しに来るたび、
カオスなチョンキンマンションの安宿に泊まっていた。
だが、かつて怪しいインド人が大勢たむろし、
ニセモノブランド品の工場、クスリの売買、淫売宿、と、
ディープな香港を垣間見せてくれていたこのビルも、
今では、すっかり小ぎれいなショッピングアーケードへと
改装されてしまっていた。
そして、チョンキンマンションで両替をしていたその時、
もう何もかもがそのままでいいんだ、と理解が起きた。
いつも自分を無視してくるあの人は、あの人のままで、
恐怖から自己防衛している人は、自己防衛したままで、
クヨクヨメソメソしていたら、クヨクヨメソメソしたままで、
裏ぎられて怒りに打ち震えるなら打ち震えたままでいい。
そのままですでに完璧で、何一つ変えるべき点はない。
ていうか、完ぺきな神を変えることなど不可能だ。
〝神〟というひとつの解釈を通して見れば、
自分が出会う全ての人、物、事は神を代表しており、
それ故に、彼らもまた神と同じものとして見える。
もう、その人それ自体が愛であり、実相である。
もし僕が、あいつけしからん、と思ったとしても、
それもそのまま、愛でしかない。
今にいて、神に気づいて、ハートの法悦に包まれれば、
咎められる者など何もないことがはっきりと解かるのだ。
ただ、このように書くとまた誤解をする人がいるので、
付け加えておくが、
これは心の中でのスタンスのことを言っており、
例えば、子を虐待している親を見て
そのままでいい、と言っているのではない。
実際に何かをしている兄弟を変えようとしない、
とか、現実を全て受け容れる、という意味ではなく、
ただ、抵抗せずに、いま、ここに在る神を観るだけ。
そして、その神は、肉眼で見えているものの中に在り、
あらゆる音の裏に流れる沈黙のなかに在る。
話は変わって、コロナウィルスで大変な日本であるが、
昨日、安倍首相が、中国と韓国からの渡航者には、
14日間の隔離措置を推奨する、と発表したことで、
中国の一部である香港に住む僕も当分、
日本へは帰国できなくなってしまった。
何でもっと早く中国人の入国を拒否しなかったのか、
何でアメリカ籍のクルーズ船を日本が受け入れたのか、
何で今頃一斉休校なんだ、何もかもが後手ではないか、
政府は何をやってるんだと、多くの批判もあるようだが、
中華圏に27年暮らしている僕からすると、
日本の懐の深さってすごい、と思ってしまうのだ。
なにより日本政府はまだ、
ちゃんと人を、人として扱っている。
中国では、
都市を丸ごと封鎖し、医療従事者を病院に閉じ込め、
マスクをしない者には暴力を振るい、
感染者の家の玄関のドアに杭を打ち付け、
リアルな窮状を伝え、政府の対応を批判すれば、
国家転覆罪で懲役刑に科される。
これで、疫病は封じ込められるかもしれないが、
人としての尊厳は完全に無視されている。
そこに愛や優しさやいたわりの気持ちは全くない。
あまりに利己的で乱暴だ。
ただ、そうすることを選択した中国政府も、
その方針を、恐怖からであれ、受け入れた中国国民も、
そして、中国のやり方が乱暴すぎると思っている僕も、
やっぱり、そのままで完璧である。
完璧に起きる事が起き、バッチリ無に戻っていっている。
その事実を目撃するとき、
ああ、本当にこの世界は無だった、としみじみ思うのだ。