今日は、定時きっかりに仕事を終えた。
夜、買ってきた叉焼をつまみにマッコリを飲みながら、
WOWOWシネマで『ツナグ』という日本映画を観た。
その中で主演の松坂桃李が樹木希林相手に呟いた、
「僕の目の前からいなくなった大切な人たち。
ただ僕の目には見えないだけで、
彼らは、今も、ずっとそばにいる…。」
というセリフに涙があふれた。
まあ、あらすじは検索していただくとして、
全編を通し、切なく、泣ける映画であった。
原作の小説も読みたくなったほどだ。
👆 映画『ツナグ』より。大野いとちゃんが神すぎる!
僕はどちらかというと、視覚的なものから愛を感じ、
神に繋がってゆくタイプなので、赦しの過程で出てくる、
一瞬黙る、一瞬沈黙するの意味がよく解からずにいた。
しかし、聴覚的な赦しとはこういうことなのかな、と、
今日、腑に落ちた瞬間があった。
事務所の上の階のフラットで内装工事が行われていた。
ドリルで壁を削る、ガガガ、という音が癇(かん)に障る。
常に騒音がある訳ではなく、忘れた頃にガガガガと来る。
ずっとうるさかったらまだしも、仕事に集中している時に、
突然、ガガガ、と来るので、ドキッとして心臓に悪い。
そして、
静寂 👉 ガガガ 👉 ドキッ 👉 再び静寂、
を繰り返すうち、あることに気づいたのだ。
静寂があってガガガがあり、ガガガがあって静寂がある。
静寂とガガガは表裏一体なのだ、と…。
そして、ガガガの次のドキッ、が神の想いである。
静寂というベースの上に、ガガガガが生起している。
全ての音は、
静寂の中から起こり、消え、再び静けさへと戻る。
青空に雲が起こっては消えてゆくのと同様、
あらゆる物音、声、言葉は、静寂をベースに存在する。
全ての喧騒の裏に流れる〝静謐〟に気づくことが、
神に気づく入り口であり、沈黙する、一瞬黙る、
ということの真の意味であったのだ。
今にいて、一瞬黙り、
全ての喧騒の裏に流れている静けさに耳を傾けてみる。
相手が発する言葉の間にたゆたう沈黙を静観する。
そうすることで、耳にする全てが〝神の声〟となる。
沈黙はそこに在り、それは聴覚によってキャッチされる。
そういう感じ方で、内装のガガガガを聞いていると、
それもまた、神からの愛してるよー、に聞こえ、
なんだか、キュンキュンしてくるのだ。
(👆 こっ、このド変態野郎!)
聴覚をこのように捉えたことがなかったので新鮮だった。
そういう意味で五感は、
神を感じるためのとても大切な器官(ツール)だ、
と思えた今日のボクであった。