今日、久々にジムで自主トレをした。
ダンベルプレスと、ケーブルクロスと、腹筋をこなす。
ここのところ、ずっとデスクに座りっぱなしだったので、
身体がプルプル喜んでいるのが分かる。
ジムは、集団感染を恐れる人たちの影響で、
今日もガラガラだった。(10人くらい)
逆に、ガラガラなので集団感染のリスクが少なく、
安心して利用できるという、皮肉な展開に…。
夜、ようつべサーフィンをしていて、
あるマスターが主催するリトリートの動画を見ていた時、
その動画の中で参加者の一人が、
「さっき、あなたが言っていた事について、誰々さんは、
違う事を言っていましたが、どういうことでしょうか」
と、別のマスターの名前を挙げて質問していた。
マスターの先生はしばらく独自の持論を述べた後、
その人は違いますね、と、別のマスターを全否定した。
それまで 「この人、なかなかいいこと言うな。」
と思いながら見てたのに、なんだかシラケてしまった。
スピのリトリートなどの質問コーナーなどでよく、
目の前のマスターに、別のマスターの言っていることが
正しいかどうかを確認しようとする参加者がいる。
「誰々さんはこういうふうに言われてましたが…。」
「あの本にはこういう風に書いてあったのですが…。」
「誰々さんのブログが大好きで読んでいるんですが、
その中にこういうことが書いてあったんですが…。」
みたいな…。
こういう質問はあまり意味がない、と僕は思っている。
なぜなら、マスターAに、マスターBのことを質問し、
マスターAが、マスターBは間違っていると言ったとして、
もし、同じ質問をマスターBにすれば、今度は、
マスターAが違う、となるかもしれないからだ。
なので、僕は原則として、自分たちのコミュニティの中で、
他の教師について否定している人を信用しない。
本人不在の中で、あの人が言っていることはなんちゃら
と、云々しても意味を成さないし、
だいいち、そんなの〝愛〟じゃない。
僕たちは、学びの、とある地点で、
全ての教師のセッションや、ワークや、スピ本や、
スピ動画をすべて捨て去るべき時がやってくる。
そして、その瞬間は、
自分が悟るだろう〝いつか〟ではなく、
〝いま〟ここに用意されている。
日常の〝いま〟の中に在る神に気づく瞬間は、
コミュニティーや学習会の中ではなく、
真に一人にとどまり、沈黙した、
いま、この瞬間に起こるのだ。
なぜなら、
〝このコミュニティの人たちと一緒に学び、
みんなで父が待つ故郷へと帰ってゆきます〟
なんてあり得ないからだ。
もしあったら、それって、カルトだよう。