イースターの祝日に出勤したときの代休で、
今日から僕だけ4連休である。
一日目は〝食ちゃ寝〟して過ごそうと決めていたので、
昼はピザの宅配を取り、夜はその残りを食べた。
昼間、ずっと奇跡講座のテキストを読んで過ごした。
そう、僕だって、たまにはテキストくらい読むのだ。
テキストはすでに二回読了し、いま三巡目なのだが、
やっと、31章の「最後の心眼」のところまで来た。
〝神の子が自分の無垢性を学ぶときには、
神の愛が必ず思い出される。〟
〝神の子が無罪だというレッスンから生じる世界は、
恐れがなく、一切が希望に照らされ、
優しい親愛の光できらめいている世界である。
一切があなたに呼びかけ、あなたの友となって、
あなたと繋がらせてほしいと優しく訴えかけてくる〟
この神の愛の感覚、めっちゃわかるぅーっ。
これって、現実的には何も起こってはいないのに、
通りを行く全ての人や、周囲にある全ての建物から、
一斉に祝福されているような感覚のことだ。
それが、自分を攻撃してくる人の言動であっても、
また、自転車が自分にぶつかってきても、
好きだーっ、と言われているような感覚。
分かる、分かる、分かるーっ、と思いながら読んだ。
僕はよく、外界の人や風景や物音を観察しながら、
ああ、これが今の自分の心の中かあ、と呟くことがある。
自分の心の中が外の世界に投影されているのなら、
自分の内部は全て外側の世界に顕れていることになる。
すなわち、見えないと思われている心の中は全て、
外の世界にむき出しになってさらけ出されているのだ。
なので、自分の心の中が今どういう状態かを知るには、
世界がどのように見えているかを観察すればいいのだ。
街行く人を見て心がきゅんきゅんしたり、
部屋の床に反射する陽だまりに美しさを見たり、
おかえり、という守衛のおじさんの声に神を感じたり、
そんな時、自分はいま神の愛の中にいる、と思える。
あ、そうそう、昨夜、またあの青年に会わせてください、
とお願いして眠ったら、今度は夢に女の子が出てきた。
二十歳くらいの女の子で、僕が眠っているベッドの傍らで
あなたが大好き、と言って寄り添ってくれる夢だった。
このときも、前回の夢に現れた青年と同じ、
暖かい愛の想念を感じて、胸がきゅんと切なくなった。
きっとこの二人は〝僕と共に旅をする存在〟なのだろう。
そして、この存在は光を持っている。
もう、あと少しなので読了してやろう、と思ったのだが、
強力な睡眠導入剤であるテキストの催眠効果には勝てず、
結局、夕方から爆睡、と相成った。
明日はちょっと、街に出て見るぞ!