今日は土曜日、ずっと家でお籠りである。
牛肉と卵を焼き、ちゃんとご飯も炊いて、
それを昼食と夕食に分け、しば漬けと一緒に食べた。
吉本新喜劇を見ながら昼食を食べていると、
なんだかすっごく平和で幸せな感覚に包まれた。
しば漬け、吉本新喜劇、窓から差し込む日差し…、
それら、絶えず移り変わる夢の映像の奥に、
〝ずっと存在している何か〟の気配がある。
その気配が、僕に平和な気分をもたらしている。
僕たちは、椅子が目に入れば椅子を認識し、
近所の田中さんを見れば、田中さんだと気づく。
また、喫茶店で安室奈美恵の歌が流れてくれば、
ああ、安室奈美恵だ、と分かる。
しかし、いったい何が、ただの夢の映像に過ぎず、
存在もしていない椅子や、田中さんや、安室奈美恵
に気づかせているのか、をようく見てゆくと、
それら、認識しているものの奥に、
〝何だかわからないけど何かが在る〟
という気配が存在していることに気づく。
例えば、ある女性が、
「私は自分の彼氏が死ぬほど好き」と言った時、
じゃあ、その人のどこのどういう部分が好きなのか、
と問われても一概には説明できないだろう。
優しいところが好きとか、背が高いからと言っても、
同じように優しく背が高い人はいるはずだ。
それは、その対象者の奥に、何だかわからないけど
自分をキュンキュンさせる何かが〝在る〟から、
その人を死ぬほど好きになるのだ。
その存在の気配は、
全ての、見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、
の背後に流れており、常にここに在って、
変化することも、消えることもない。
普段は、それを、わたしのお母さん、
わたしが知っているお隣りの田中さん、というふうに
〝わたし〟を介して見ているのでわからないが、
全てをひっくるめた〝存在する感じ〟だけで見れば
そこには〝ひとつの存在している感じ〟だけがある。
その気配を特定しようとすれば即座に見えなくなり、
それでも、その存在感は、確かにあり、感じている。
それが神だ。
しかし、僕たちは、その存在する気配を、
私のお金、私の愛する人、安心の生活、仕事、など、
私だけの特別な存在にしようとしてしまう。
その気配に抵抗せず、ずっとそこに留まる。
本当に欲しかったのは、その神の気配だけだった。