👆 アジサイをイメージしたケーキ
今日は時短勤務の日。(自分で決めてるんだけど)
朝10時から午後4時まで、オフィスで仕事をした。
コロナ禍で、閉じこもる生活が続いているせいか、
以前は何とも思わなかった、小さなことが気になる。
今日はエドワードが在宅勤務なので、
日本人の同僚と二人で事務所にいたのだが、
掃除のおばさんが掃除に来たり、
運送屋の兄ちゃんが荷物を持ってきた際、
呼び鈴が鳴っても、日本人の同僚は全然動かず、
いつも僕が扉を開けに出ている。
それに電話が掛かってきても、彼は出ない。
まあ、彼は広東語ができないので、
僕が出た方が効率がいいのだろうが、
「いや、そんな問題ではない、こっちも忙しいんだ、
少人数なんだから、お前もやれよ」
と、つい、ショーもないことでイラっときてしまう。
で、ここは、直接言った方がてっとり早い、と思い、
電話が鳴った時、出てください、と本人に言ったら、
ちゃんと電話に出て、北京語で対応していた。
そしてその瞬間、
僕の中のモヤモヤがすっと消え、愛が戻ってきた。
とまあ、何とも、ちっさい話で誠に恐縮なのだが、
大ゲンカした相手を赦すより、こういった、
取るに足りない日常のモヤモヤを赦す方が、
我慢できる分、却って難しかったりする。
しかし、このレベルのモヤモヤは、得てして、
情報量の少なさに起因して起こっていることが多く、
相手にハッキリ言うこと(情報をあたえること)
によって解決してしまうことがほとんどだ。
日本人の同僚も、僕がこのことでイラっとしている、
という情報が不足していたため、
気を付けたくても、できなかっただけのことだ。
しかし、なんで俺ばっかし門を開けに行くんだよ、
レベルのことを家族以外の人に言うのは、
なんか、小姑みたいで、すっごく気恥ずかしい。
そこで、
起きてることが起きてるだけ、とか、世界は無い、
と、謎に内側の赦しへ向かおうとしてしまう。
その、内側だけで解決しようとするスタンスが、
モヤモヤしている自分を責める結果になったり…。
いやいやいやいや、言えばいいだけである。
この世界は自分が作っていて、誰もいないのなら、
言うべきことを、怖がらずに何でも言えるはずだ。
これって怖いけど、えいやーっ、と腹に力を入れて
一回やったら、後は案外できるようになる。
直接言うことによって、少しだけ気分がよくなり、
気分がよくなることで、少しだけ心が平安になり、
心が平安になることで、愛を感じられるようになる。
そこまで行くと、
日本人の同僚の、色んな愛の面が見えてくる。
いつも一番乗りして、事務所のシャッターを開け、
コーヒーを淹れておいてくれるのも彼だし、
ウォーターサーバーのボトルを入れ替えるのも
エドワードか彼で、僕はやったことがない。
僕は、点のように小さな、
愛ではない一点に意識をフォーカスさせ、
広大な愛の部分に気づいていなかった。
神認知症の僕たちは、
すぐに愛を忘れてしまうけれど、こうやって、
何度も何度も、愛を思い出す訓練をすることで、
神を思い出してゆく。