今〝自分の居場所〟について考えている。
というのも、香港や職場や友人関係といった、
自分がいま、存在している〝場所〟に対して、
ここのところ、妙な違和感を覚え始めているのだ。
例えば、僕を含め、多くの人たちが、
職場、家庭、学校、コミュニティ、人間関係、など、
本質の自分は、ここにいることを嫌っているのに、
肉体の自分は無理やりそこに居続ける、
ということをしながら暮らしている。
もともと、
合わない場所で、合わない事をやっているので、
そこから、様々な葛藤が生まれ、不安に襲われる。
ある意味〝自分責め〟状態で過ごしている。
僕の場合、
器用にその〝場〟に適応できてしまうため、
色々感じながらも、根性で乗り切れてしまう。
それでも、神が入って以降は、愛が循環し始め、
内側だけで愛を感じていれば、
会社にいても、どこにいても、みんな大好きだし、
あんまり関係ないかな、みたいな感じでいた。
しかし、ここへきて、今のスタンスに対して、
ああ、もう、いいかな、と思っている。
なんていうんだろう、う~ん…、たとえば、
スーパーで長年レジ打ちをしていた松田聖子が、
「あれ、私、なんでレジ打ちなんかしているの?
本当はもっと違う場所に居てもいいような気が…」
と、ある時ふと我に返った、みたいな違和感…?。
「この仕事を失ったら大変なことになる、
と思って、嫌な上司にも耐えてはいるけれど、
なんか、ここ、違う気がする…」
と考えながら、レジ打ちしている松田聖子…?。
要するに、何が言いたいかというと、
本質の自分とあまりにかけ離れた場所で、
本質の自分と全く合わないことを
している時の違和感を説明したかった。
まあ、こんな感じで僕も、
ここにいるのは違うような気がする、
という感覚が日に日に大きくなってきている。
また、その違和感に抵抗している自分もいる。
松田聖子が、スーパーアイドルになるために、
レジ打ちの仕事を辞めることに抵抗している、
といった類の抵抗が自分にも起きている。
また、背後の〝それ〟(愛/神/悦び)そのもの
で在ることがリアルになればなるほど、
もっと別の、どんな場所にも行っても大丈夫、
という確信と歓びが湧き上がってくると同時に、
旅立ちの別れのような寂しさや切なさも感じる。
というわけで、
そこでしかやっていけない、そこでしか無理、
が無くなってしまった。
もうどこにいても大丈夫。
なぜなら、いつも自分は、
背後(全て在る場所/神の想い)そのものだから…。