☝ さあ、今年もイクわよ!
今日は新年初マッサージー!
ということで、ああ、気持ちよかったぁー!
コロナ禍でマッサージ店も閉鎖なのだが、
常連客ということで、こっそりやってもらった。
家に帰ってクラウド録画の紅白を見る。
今年もちゃんと越えてくれてるかな、と、
早送りで石川さゆりのところを先に見た。
今回はちょっとカメラワークが悪すぎ!
本人はあんなに一生懸命越えてくれているのに、
背景のセットも一緒に映そうとするもんだから、
クライマックスで〝越えている〟場面が、
豆粒のように小さく映ってしまっている。
天城越えは全部アップだけでいいんだよっ!
ホント、NHKってツボを解かってないっ!
これじゃあまるで、
女優さんの顔を映さないAVみたいなものだ。
あっ、えへんっ、ごほんっ、し、失礼っ!
まあ、ご本人のお年もお年なので、
アップは控えめに、ということなのかもしれない。
それでも、きちんと越えてくれて今年も一安心!
☝ ああ、来るぅー!
話題は変わり、昨日の記事で、
僕の眼前に現れる全ての兄弟が寄ってたかって
僕を助けようとしてくれているように感じる、
と書いたが、これをもう少し詳しく説明する。
たとえば、
自分が何かで困った時や、ヤバいとなった時に、
助けてくれたり、力になってくれる人というのは、
普通は大体、血のつながった家族であったり、
なんでも相談できる親友であったり、
愛情で結ばれたパートナーであったりする。
要するに、ほとんどの人には、
いざとなったら頼ってゆける特別な人がおり、
仮に、そのような人物をAさんと呼ぶことにする。
☝ ああ、越えるぅーっ!
自分が困ったときに助けを求めるAさんは、
常に自分の味方でいてくれ、何かあれば、
相談に乗ってくれたり、手を差し伸べてくれたり、
一緒に苦労を共にしてくれるような存在だ。
そんなAさんを自分は心から信頼しており、
そういう関係性があるからこそ頑張れるし、
この現実世界で、心の平安を保っていられる。
まあ、そういう特別な人物というのは、
大概が、家族かパートナーなのだが、
僕の場合、家族や友人のみならず、
道行く人、会社の人、アパートの隣人、店員さん、
バスで隣り合わせた人、ちょっとすれ違った人、
全ての兄弟の中にこの〝Aさん〟を見ている。
見ているというより、感じている。
前方同士(自我)の視点から見れば、
みんな、外見も、性格も、境遇も違うし、
話したこともない、赤の他人なのだが、
彼らの背後には共通した同じAさんが存在する。
そして、この普遍のAさんこそが神の愛である。
☝ 「越え、た…!」遠い目でフィニッシュ!
ビールを運んできてくれた店員さんや、
マッサージをしてくれたマッサージ師の人、
みんな、愛で僕を助けようとしている。
また、今、隣で地下鉄を待っている人は、
僕がここで転んだらきっと助けてくれるだろう。
うまく説明できないのだが、ひとつの愛が、
僕を生かそうとしているように感じられるのだ。
あなたがお金を払ったから、
相手はそれなりのサービスを提供しただけだ、
と自我は解釈をしようとするだろう。ノー!ノー!
〝ひとつのAさん〟が彼らの背後にいなければ、
眼前の店員さんは、たとえお金をもらったって、
あなたにサービスなんかしない。
そしてそんな〝Aさんな世界〟に僕は感謝しかない。
あなたとわたしは同じで、ひとつなんです、
という言葉の意味がようやく理解できた、
天城越えな新年であった。