8月9日の午前8時11分、僕の父が亡くなった。
享年85歳、死因は誤嚥性肺炎で、
いわゆる老衰であった。まあ、大往生である。
女性はどうかわからないが、息子の場合、
いつも母親から父親の〝悪口〟を聞かされ、
ついつい、父親に敵対心を持ってしまいがちだが
年齢を重ねるにつれ、家族を養うために、
一生懸命働いてくれてたんだなあ、と、
父親へのありがたみが湧いてきたりする。
学生の頃など、うちのお父さんは何もしてくれない
と言って毛嫌いしたりするが、よく考えてみると、
学校へ行けて、スマホが持てて、小遣いもらえて
ゲームをさせてもらえている時点で、
すでに多くの愛をもらっているのだ。
コロナ禍でもあり、親戚もみんな高齢なため、
通夜と葬儀は家族だけでこじんまりと済ませた。
会社からは3日間の忌引休暇をもらい、
僕もオンラインビデオで参加した。
そのとき、父の死に顔を見てしみじみ思った。
自分も今まさに、刻一刻、一秒一秒、
死んでいっているのだな、と…。
誰でも一度は「人って最後は死ぬんだなあ」と、
達観した気持ちになったことがあると思うが、
その一方で、自分は死なない、とも感じており、
来年も10年後も自分は生きていると信じている。
だからこそ、さほど行きたくもない場所で、
さほど会いたくもない人に会い、
本当にやりたいことを先延ばしにしていても、
平気でいられるのだ。
だが今回の父の死が後押しとなり、
僕はもう本当の意味で、
自分の本質に沿った生き方をしようと思った。
今の僕には完成させたい小説作品が4本あり、
このまま会社勤めの片手間にやっていると、
完成するのはいつになるかわからない。
特に、自分の内側(背後側/神側)を通して、
聖霊兄貴と会話をするようになってからというもの
自分の分身でもある、小説の登場人物とも、
コミュニケーションが取れるようになった。
すると、彼らは自分の心の中に存在する、
別の側面であることがありありと実感でき、
ちゃんと〝生きている〟ことが理解できる。
また、本質の自分と合わないことをすることに、
大きな違和感と苦痛を感じるようにもなってきた。
僕の場合、
皆様ご存じのように、それは会社勤めなのだが、
マネージングダイレクターという職位や収入、
積み上げてきた全キャリアを手放すことに、
正直、まだほんの少しだけ抵抗が残っている。
しかし今回、
「安心して死ぬために恐れずに生きなさい」
と、自らの死を以って教えてくれた父のお陰で
ようやく握りしめていた手を放せそうだ。
今日は日本の終戦記念日。
僕の中の戦争を終わらせる日、
愛と自由に向かって全面降伏する日、
今日はまさに僕の終戦記念日でもある。