香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

自分の想いに自分でケリをつける

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  でも最近〝正統派〟が苦手に…。

 

何か現実で辛い出来事が起こった際、

たいていのコース兄弟なら、

肉体である個の私には何も分かりません、

なので、自分では何もしません、判断しません、

と、即行、聖霊に助けを求めて祈ると思うのだが、

祈った後、

聖霊の助けが来たかと言えば???である。

「いや、私たちの分からない深い部分で、

 聖霊はちゃんと仕事をしてくれているんですよ」

とコース教師からアドバイスされたりしても、

やっぱり何も感じないし、苦しいのは変わらない。

 

僕の体験から言うと、それって取り消されてない。

自分で作った夢に、自分でケリをつけないで、

ただスルーして、兄貴い~、とやっても、

自分が納得していないので、助けは来ない。

辛いと感じる出来事が起こった瞬間、僕達は必ず

何らかの思いや感情を〝感じて〟いる筈である。

なのに、

〝悔しいよ、悲しいよ、ムカつくよ、〟

〝オレらも本当は愛なんだよ、認めてくれよう〟

と言って、せっかく出てきたそれらの〝懇願〟を、

「真実のレベルではそれは実在ではない」と、

瞬殺で無視してしまう。

 

ノー!

〝自分でやらない、ただ世界を見過ごす〟とは

どんな感情でも、一旦しっかりと受け止め、

それらが愛であったことをただじっと見とめてから

大好きだよー、と言って去らせてやることである。

しかし、嫌な感情を直視するのはとても辛いので

兄貴に助けてもらう。

それが聖霊と一緒に見る、という意味である。

「これは本当は愛なんだ、だから聖霊に祈って、

 世界を見過ごして、なんちゃらかんちゃら…」

と、言葉で言い聞かせながらやるものではない。

「ああ苦しい!ああ腹立つ!もうイヤだ!」と、

その苦しみをただ聖霊と一緒に感じ尽くすのだ。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

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僕の場合、

去年の〝国慶節飛び降り寸前騒動〟の際、、

「よっしゃあ、全肯定して受け止めてやるぜ」

と腹にぐっと力を入れ、覚悟が決まった瞬間、

ああ、これみんな愛に変わるために出てきたんだ

と分かって、すっごい感謝と愛に襲われた。

自分が創り出したものを肯定して受け入れ、

それらと真正面から向き合った時に初めて、

自我は納得して愛となって消えてゆく。

それが、赦す、ということの実践的意味である。