12月18日は僕の誕生日だった。
それも、僕が香港で過ごす最後の誕生日(多分…)
ということで友人がビュッフェをご馳走してくれた。
今回は、シャングリラホテルのビュッフェで、
他のどのホテルのビュッフェよりも豪華だった。
中でも、ロブスターと、カニと、エビと、カキの、
大盛、取り放題、食べ放題は圧巻で、
僕は甲殻類が苦手なので食べなかったが、
幸せそうにロブスターを頬張る人達の姿を見て、
僕まで幸せな気持ちになった。
フォアグラのサンドイッチや、新鮮なお刺身、
個性的なスイーツの数々を楽しみながら、
友人とおしゃべりをしていると、
とてつもないありがたさが湧きあがってきて、
ああ自分はいま神の中にいるんだなあ、と、
至福の感覚が込み上げてきた。
神の愛の感じそのもので在るとき、
世界に対する〝見え方〟が変わるのではなく、
自分の中の〝感じ方〟が変わっている。
見え方が変わる、というルートで行ってしまうと、
「罪なんてなかったんだ」「神しかなかった」
という考えから神に〝至ろう〟としてしまい、
どうしても〝何かしよう感〟が出てしまう。
しかし、神を感じる、ことを優先させていると、
何もしなくても、罪はなかったことが〝解かる〟。
そう言われるとつい、
神を感じよう(笑)としてしまいがちだが、
神を感じようとするその前に、
先ずは自分を100%感じることである。
喜びや幸せだけでなく、不安や怒りや憎悪、
それから、寒い、暑い、痛い、ぞわぞわ、といった
肉体の感覚に至るまで、きちんと感じてやる。
感じていること(考えていることではない)を、
全て受け止め、全受容してやったうえで、
本当は自分はどうしたいのか、という本音を、
自分に訊いてやるのだ。
それが、
(罪を)認識する、という最初の段階となり、
そこで初めて、この想いの処理を、
兄貴に依頼することができる。
形而学上から言えば、
「私には何もわかりません。理解していません」
から直接兄貴に丸投げでも可能ではあるけれど、
これを何年も実践して、あまり変わらない兄弟は
この〝認識する〟という部分を、
もう一度見てゆく必要があるかもしれない。
世界を変えることが目的ではないけれど、
神の愛の感じは超超超強烈パワーであり、
実践をしていれば(学習ではない)、
いやでも世界がガラッと変わっているはずで、
もしそうでなければ、絶対おかしいと疑うべきだ。