毎日、夕方に競馬場をランニングしている。
一応、ジムが解禁になるまで続けるつもりで、
それに合わせ、炭水化物制限も始めた。
こうして毎日、競馬場のトラックを走っていると、
軽いトランス状態に入るからか、周囲の景色が、
認識できなくなる瞬間を体験するようになった。
と同時に、
これはビルで、この人は男性で、ここは競馬場、
と思った時点で、今ここに在る無限(神)に
抵抗していることに気づき、その抵抗に対して
居心地の悪さを感じていることにも気づいた。
「これ全部が神やなんてイヤや!怖すぎる!
せやから、これはビル、あれは男性、
ということにしとけば、とりあえず安心!」
と言ってる自分が透けて見えてしまうのだ。
〝競馬場〟で〝ランニング〟をしている〝僕〟
といった、見る、聞く、感じる、という行為から、
言葉による解釈が立ち上がり、そこから、
神が無数に分断された世界を認識している。
なので、
全ての人やモノや出来事に神が顕われている、
というのも、分断された人やモノや出来事の中に
分断された神を見、感じていたことになる。
今日も、(自称)ランニング瞑想をしていた時、
ビルや、競馬場の芝生や、風や、木々の裏に、
知ってしまえばすべてが終了、というような、
決して分断されることのないとてつもない真実、
みたいなものの〝気配〟を感じていた。
それで、もっとよく観よう(感じよう)とすると、
ビル、競馬場の芝生、風、寒い、といった、
言葉による解釈にかき消されてしまう。
もっと言うと、それは気配ですらなく、
ある、とか、ないとかすらも言えない、
理解を超えているもの…。
なにか隠れてるんだけど、よく見えない。
感じてはいるんだけど、正体がはっきりしない。
なんか、
あちこちモザイクだらけのAVを見ながら、
イキそうでイケないひとりエッチを
延々しているみたいな感覚…。(し、失礼!)
あ、そうだ!
明日〝天城越え〟を聴きながら走ってみよう!