今日は午後から、香港人の友人が、
パソコンのディスプレイを受け取りに来たので、
ついでに近くの酒楼で飲茶(ヤムチャ)をした。
午後2時過ぎに行ったのだが、客は僕らだけ。
ひとテーブル二人までという人数制限の中、
大勢で楽しむヤムチャに人は集まらないのだ。
実際二人で点心をオーダーしても食べきれない。
かと言って、せいろが少ないのも味気ない。
結局、余った点心はお持ち帰りして夜に食べた。
前回の記事で、
探求する〝私〟が消えた、と書いたが、
だからと言ってあらゆる欲が消えたわけではなく
常に平安で幸せ、というわけでもない。
また、神秘的で特別な境地に至る感じでもない。
会社で嫌なヤツがいたらいたままで、
パートナーに不満があれば不満タラタラなままで
全財産が千円なら千円のままで、何の問題もなく
その瞬間にカタがついていて赦され切っている。
夢の世界は雲の如く常に変化しているので、
起こることを自分で制御するなど絶対不可能だ。
想いや感情をコントロールすることもできない。
従って、赦そうとしたり、気づこうとしたり、
委ねようとしたり、受け入れようとしたり、
見過ごそうとしたりする〝自分〟がいる時点で、
すでに、赦すことも、気づくことも、委ねることも、
受け容れることも、見過ごすこともできない。
奇跡講座では、一歩引いて何もしない、とか、
操縦席を聖霊に譲る、とか言ったりするが、
一歩引いて敷衍して見ている自分がいたり、
譲る〝自己〟が立ち上がった時点でもう、
一歩引いてもいないし、譲れてもいない。
⇧ 32歳の友人(保険の外交員/成績トップ)
肌のつやが違う。ああ、戻りたーい!
形而上学で理解したり、頭で分かろうとすると、
その時は楽になっても、必ず再び迷い始める。
苦しい⇒聖霊に委ねる⇒赦し⇒気づいた⇒
ああそうだった⇒納得⇒平安⇒でも待てよ…
と、玉ねぎの皮むきを延々繰り返す。
自分なんて無い、をはっきりさせるには先ず、
自分に向かわなければならない。
ワプニックでもなく、アーテン&パーサでもなく、
小和田菜穂さんでもなく、バシャールでもなく、
その他あらゆるスピマスターでもなく、
先ずは自分である。
自分に向かい始めたとき、
そこに自分なんてないことが明白になる。
今週末か来週あたり、
インスタライブをしようと思っている。
ただし、限定公開の鍵アカ配信となるので、
事前フォローをお願いします。(@hoshitani)