今日の香港は雲ひとつない晴天だった。
最高気温も28度と初夏を思わせる一日だった。
僕はといえば、他の香港人男性を真似して、
真昼間からランパン一丁で競馬場を走ったので、
全身日焼けで真っ赤っかになってしまった。
短パンだけ(ほとんど裸状態)で走ったあと、
更衣室でシャワーを浴びてからTシャツを着れば
着替えを持ってくる必要がないのだ。
そんなセコイことを考えたのがいけなかった。
この年齢で日焼けすると肌がシワシワになる。
くうぅーっ!
やっぱ、これからは夜に走ることにする。
2月1日から始まった春節休みの約一週間、
ネットも、スマホも、テレビも、全部封印して、
湧きでてくるどんな想いも相手にせず、
ただ見えているもの、聞こえているもの、
触れているものだけで座り続けてからというもの
〝わたし〟が完全に脱け落ちてしまい、
ただ赦され切ったものだけ、になってしまった。
あれから2カ月余り、この境涯が定着するにつれ
〝探求〟がぴたっと止んでしまった。
先ず、ようつべのスピ動画を全く見なくなった。
見ても頭に入ってこないので、3分と持たず、
画面を閉じてしまう。
それから、
今日はこんな美味しいもの食べました、とか、
こんな素敵な場所に行ってきました、とか、
こんな楽しいイベントに参加しました、とか、
欲しかった車をゲットしてもう最高ーッ!
みたいな、何かを手に入れて人に見せたい自分
というものが、すっと消えてしまった。
じゃあ、様々な意欲や探求心もなくなって、
すっごく無機質で虚無的な感じなのか、というと、
そうではなく、自分が抜け落ちてしまうと、
世界そのもでしかなくなってしまうため、
(といっても、自分が世界になるのではない)
わざわざ何かを探求しなくても、手に入れなくても
もうすでに今この瞬間のこれやん、となり、
日焼けして皮膚が真っ赤っかになっても、
トカゲが床を這っていても、誰に何を言われても、
絶対に大丈夫だ、というブレない感覚。
(といっても、それを感じている誰かはいない)
赦され切っているので赦すこともない。
赦す誰か、赦される私はどこにもいない。
カタがついて赦され切ったそのものに触れたら、
もう絶対に迷うことがない。