近江八幡の旅の中で、何度もデジャヴを見た。
自転車に乗って信号待ちをしている時、
S氏が地図を見ながら方向確認をしている姿に、
「あっ、この景色、見たぁっ!」となり、
屋形船に乗っている時、橋の上から手を振る女性に、
「あっ、この光景知ってるぅっ!」となり、
昼食をとっている時、隣りの席のおっちゃんが
「あっ、このおっちゃん、くしゃみをする」と思ったら、
3秒後に本当にくしゃみをしていたり、と、その他にも、
10回くらいこんな感じのデジャヴに遭遇したのだ。
👆 近江八幡宮 七五三で賑わっていた
デジャヴはこれまでも体験してはいたが、
今回はあまりに多すぎると思った。
そのうちなんだか、すでに起こっている過去を、
追随して見せられているような気がしてきて、
「なんか、過去世をもう一度生きているみたい」
と呟いた瞬間、背筋が、ぞぞーっタウン、となった。
(※すんません。ここ、笑うところです)
👆 観光案内所
帰りの大阪方面へ向かう新快速で山科駅まで来た際
接触事故のため、そのまま車内で足止めを食らった。
京阪電車への振り替えの案内をするアナウンス、
塾に間に合わないと騒いでいる高校生たち、
窓から見える暮れなずむ秋の夕空、
「このシチュエーション、絶対やったことある」と思った。
ゲイリーの一冊目『神の使者』などでは、
この現実世界で起こる人生の出来事を指して、
僕達は撮り終わった映画を見ている、とか、
シナリオはすでに決まっている、と言ったりするが、
形而上学で学んで、ふんふん、と納得するのではなく、
撮り終えた映画の中にいることを本当に智覚できると、
もう、自分には何もできず、何をしても無駄であり、
無駄であるからこそ救われていることが解かる。
迷って決断したあの事も、努力の結果のこの事も、
怖くて悲しかったあの出来事も、本当はなにひとつ、
自分で決めてもいなければ、起こしてもいなかった。
迷うことも、努力することも決まっていたことであり、
あの出来事に恐怖を感じるのも織り込み済みだった。
見る前に見えていて、知覚した時にはもう過去である。
そう、何ひとつ〝自分のせい〟で起きたものなどない。
故に、自分がやった、と責める必要も、
罪悪にさいなまれる必要も、全くないのだ。
映画のシナリオがどんなものであっても救われており、
大丈夫なのだということがハッキリ腑に落ちた瞬間、
本当の平安と悦び(実相)が立ち顕われてくる。
そう、真の平安は、現実とは全く関係が無い所にある。
このことが完全に理解できた頃、電車が動き出した。
こうして、織り込み済みな僕の一日は終わった。