👆 去年のデモをモチーフにした絵
今日は一日、家でうだうだしていた。
午前中、掃除、洗濯、アイロンがけ、と進み、
正午になると、探偵ナイトスクープを見ながら、
出前のピザを食べた。
それから、創作をしたり、本を読んで過ごした。
夕方、なんか眠くなり、ベッドで少しまどろんだ。
ふわふわと宙に浮いたような意識の中、
天井をボーっと眺めていた時、突然、
「ああ、もう、丸ごと、ぜーんぶ赦そう!」
という強烈な〝想い〟が湧き上がって来た。
するともう、気が抜けたように身体が軽くなり、
「全てを赦す、赦すことを許せている、
OK!OK!パラレル丸ごと赦してOK!」
みたいな感覚に凌駕されていた。
あの出来事のナンちゃらを赦す、とか、
内側に出てきたものに光を当て、とか、
トランス状態に入って意識が変容を起こした、
といったような感覚ではなく、なんていうか、
過去も、未来も、過去世も、分離のなんちゃらも、
何もかもを、ぜーんぶ、そのまま、まとめて、
赦していいや、赦してもオーケー、と、
言葉ではなく、体感での納得が起きたのだ。
なんか、吸っていた息を一気に吐き出した感じ。
赦しって本当は、
赦すことを自分に〝許可〟することだったのだ。
〝赦す〟と〝許す〟は違うんですよ、
と、よく言われるが、
赦すという〝ひとつ〟のことを自分に許せば、
自分の全てがすでに赦されていたことが、
体験として解かる。
玉ねぎの芯をガッ、と抜いたら、玉ねぎの皮が、
一斉にバサバサっと落ちました、みたいな感じ。
究極の赦し、とは、
赦している感じ、赦せている感触、
全て丸腰で赦されているという〝知覚〟であり、
何をどう赦しているか、ではない。
そのことを〝体感で悟っている状態〟のことをいう。
カチンと来ても、嫌なことがあっても、悲しくても、
全部そのままで赦しているその〝感じ〟なのだ。
イラ、ムカ、カチン、が消えることが赦しではなく、
ましてや、イラ、ムカ、カチン、
が出てきたから赦すのでもない。
やっぱりもう、
言語では到底、表現することなどできないや!
その〝赦していいや〟の感覚は、
いまもまだ僕の中で息づいている。
というか、自分は赦しそのものだったのだ。
自分は霊だ。
だから、この幻想世界で何がっても大丈夫、
だって、僕はここにはいない。
そのことを〝知覚体験〟できている。
これが赦されていることを許した結果だ。
今思ったのだが、ひょっとして今日は、
すごい日だったのかも…。
知らんけど…。