👆 京都の伏見稲荷に行ってきた
ちゃんと稲荷山の頂上まで登ったよ!
謹賀新年、あけましておめでとうございます。
これまでの人生では、新年が始まったと言っても、
まあ、今年もいつも通りに会社へ行き、
いつもと同じような人と、いつも通りの仕事をして、
いつもと変わらない休日を過ごすのだろうな、と、
だいたい予測のつく一年の始まりとなるのだが、
日本へ帰国してからは、一年後にどうなっているのか、
全く予測がつかない今この瞬間を生きている。
それで全く不安も恐怖も感じていないのが不思議だ。
何が起こっても、起こっていることを裁く自分がいない。
ドンピシャな表現ではないけれど、強いて言うならば、
起こっていることそのものだけが在る、みたいな…。
👆 なんと8割が外国人
それで、全く予測がつかないと言えば、能登の地震だ。
元日の午後、実家のリビングでワインを飲みながら、
テレビを見ていたら、ぐらぐらっと家が揺れだして、
いつもの地震だろうと思っていたら、なかなか収まらず、
しばらくすると、テレビの画面がニュースに切り替わり、
能登で大きな地震災害があったことを知った。
元日早々、現地で大変な思いをされている方々を
画面越しに見るにつけ、とても胸が痛んだ。
皆さんが、一日も早く元の生活に戻れますように、
という、祈りの念が込み上げてきた。
それは、気の毒、かわいそう、応援してます、
というような自己的な思いからの祈りではなく、
起こっていることそのものの姿に対して、
ただただ寄り添おうとする祈りだった。
👆
本殿で「お金に困らない余生を…」と祈った
言うてることとちゃうやんけ、と思ったあなた
チ、チ、チ!
お金に困らない余生、という思いが
ただふっと勝手に出て来てるだけでおすえ!
(でたー!ご都合スピリチュアル)
多分こんな風に今年も過ぎてゆくのだろう、とか、
今年はこういう風になってほしい、と思っていても、
自分の力で起こることを調整するなんて不可能だ。
なぜなら意識は、起こった後のものしか知覚できず、
起こる以前の在りようを知らないからである。
故に、地震や戦争も、負の意識の現われでもなければ
罪悪感の投影でもない。
しかし、意識(私)がやっていると信じているうちは、
意識の状態が外に顕われているように錯覚してしまう。
げげっ。
簡単に新年のご挨拶をするつもりが、
マジ投稿になってしまった。
というわけで、
明日3日に実家から南森町のアパートへ戻るつもり。
そうそう。5日にはビンセントが大阪にやってくる。
初仕事は11日からなので、しばらくはお正月気分!
ワイン三昧のデカダンな日々を過ごすのだ。
(ただの酔っぱらいのおっさんやろ!)
そう、今年の僕は梶井基次郎や白先勇のような、
デカダンな作家として生きることが目標である。
って、なんやねん!
バリバリ目標立ててるやんけ!(笑)