👆 家の近所にあるお好み焼き屋さんで夕食
という思いが〝ふっ〟と立ち現れる
スーパーで、今日の夜ご飯はカレーにしようと思って、
カレーの食材をカートに入れ始めた時、殆どの人が、
今日の夜ご飯をカレーにすると決めたのは〝私〟だ、
と思っている。
しかし、冷静になってよーくよーく見てみると、最初に、
カレーにしようか、という思いが脳裏にふっと浮かび、
その後で、カレーにしよう、と決めているのがわかる。
カレーにしよう、という思いが浮かんで来ない限り、
僕たちはカレーにすることを決められないのだ。
もっと言えば、今日の夜ご飯を何にするか、は、
その時に、何が脳裏に思い浮かんでくるかで決まる。
すなわち、何が思い浮かんでくるか、を、僕たちは、
自分で決めたり、コントロールすることができないのだ。
逆に言えば、カレーにしよう、と決めさせられている。
👆 ふっと焼きそばとネギ焼きを注文し、
ふっと豚玉をお持ち帰りし、
どれも美味すぎてオニ👹という思いがが湧く
また、カレーにするか、パスタにするかで迷った場合、
カレーよりパスタのほうが簡単だし、安いし、いいかな
でも、先週パスタ食ったし、やっぱ今日はカレーだな、
と、散々迷った末に〝私〟がカレーに決めた、
みたいに思っているが、パスタの方が簡単で安い、
でも先週パスタ食べた、と、それらの想いが、
その都度、どこからともなく、浮かんで来ない限り、
迷えない仕組みになっている。
勝手に出てきた思いを捉えて、後付けで、
自分がそれを思った、と勘違いしている。
そこに〝わたし〟が生まれる。
👆 店内は思い切り昭和
先日の、がんかもしれない事件で言うと、
がんかも…⇒どうしよう⇒知人の医師に診てもらおう
という考えの発露をたどってみると、
そういう思いが、ふっと、何の脈絡もなく、
浮かんできたから取れた行動であり、
なにひとつ自分でやっていないことがわかる。
もう完全に〝ふっ〟を自分だと勘違いしている。
意識(心の中)を変えることで、
起きることを自分でコントロールできる、
と思っていたりするが、思う前に起きている。
または、
あのとき、他にもっといい人がいたのに、
何でこの人と結婚してしまったんだろう、とか、
何であのとき、あんなことを言ってしまったんだろう、
と、あとで後悔したりするが、その時のその瞬間、
他の選択が〝ふっ〟と浮かんで来なかっただけであり
どうして、その思いが浮かんで来なかったんだ、と、
責めてみたところで、責める思いが浮かばない限り、
絶対に責められないし、そういう意味で、
何かを責めている〝自分〟も存在しない。
👆 いつも行列ができているのに、
この日は奇跡的に待たずに入れた
〝ふっ〟に対する抵抗をやめて、流れのままでいれば、
〝ふっ〟も、耳に何かが聞こえてくるのと同じ、
ただ、脳に何かが浮かぶ、という器官の働きであり、
そこに自分などいなかったとすぐにわかる。
そうなることで初めて〝赦し〟が可能になる。
意識がやってる状態で赦しなんて無理なのだ。
奇跡講座は、個の自分なんて幻想だ、の、
その先のことを言っているのだが、
その前に、先ずは、先ずは、マジで、
本当になかった、を〝体験〟しなければ、
その先もくそもない。
なぜなら、体験で得た理解の中を生きることが、
赦しとなるからだ。