と、読者の方からよく訊かれる。
聖霊の声も聞こえないし、
存在も実感できないんですけど、みたいな…。
当然と言えば当然である。
聖霊兄貴に全てを任せてしまえば、
兄貴に自分が乗っ取られ、自分が消滅してしまうと、
〝隠された心〟は怯えきっている。
そんな、兄貴を敵と見做している自分に、
兄貴の声が聞こえるわけなどないのだ。
なので、そんなときは、
聖霊の声を聞こうとする前に、
先ずは、隠された心から自動的に上がってくる
〝個の想い〟を放棄する方に取り組んだ方が、
手っ取り早いのかもしれない。
例えば、
レストランで注文した料理が不味かったとする。
個の自分としては、本当にその料理が不味いので、
自分は〝不味い〟と感じている、と思っているが、
よくよくその想いの根源をたどってみると、
料理を口にした途端、どこからともなく自動反射的に、
〝不味い〟という想いが、ふっ、と、
湧き上がってきているだけだ、ということに気づく。
自我を選び、自我に脅され、自我に怯えきっている
ベールの向こうの〝秘密の心〟が発信し続ける
何の意味もない〝ガラクタの想い〟を、
〝自分が思った〟と同一化して感じてしまっている。
その想いは、別の言い方をすれば、
〝攻撃の考え〟であり〝平安を拒否する考え〟だ。
それは自分が意志した考えではない。
故に、自分の思いではないと認識し、
ただ見つめ、現れるままに任せてゆく。
起きることを、受け容れ、聖霊へと流してゆくのだ。
カタチの上では、病気でウンウン苦しんでいようが、
誰かと取っ組み合いの喧嘩をしようが、関係ない。
病気だから、自分には問題がある、
喧嘩しているから自分はまだダメだ、ではないのだ。
そんなの、一切関係がない。
僕たちはただ騙されているだけだ。
〝コント、喧嘩してても平安-PART100〟
〝コント、金欠でもワクワク-PART230〟
でOKなのである。
ただ、真実ではない〝これ〟を凝視し続ける力、
それだけが求められているのだ。
僕達の思い込みだけに支えられているエゴは、
それが〝ウソだ〟と見破られれば消えるしかない。
僕達がそっと〝想い〟を手放したとき、
聖霊兄貴がさっと操縦席に座る。
そうして、兄貴はその人にピッタリな方法で、
さまざまなことを語り始めるのだ。