👆 今日は大雨で高槻駅が大変なことに
今この瞬間に在る神に抵抗せず、
今この瞬間そのものから逃げないでいると、
世界が素粒子レベルで見え始める。
画像を凝視すれば、絵の中から、もう一つの形が
浮き出す3Dトリックアートというのがあるが、
そんな感じで、これまで見えていなかった、
時空に畳み込まれているものが見えてくる。
今この瞬間に在る神に抵抗せず、
今この瞬間そのものから逃げないでいる、
とはどういうことかというと、
今この瞬間に見えているものそのままでいる、
ということである。
ここがもうちょっとこうだったら完璧なのに、とか、
今はいいけど、このままじゃ大変なことになる、とか、
次の目標に向かってもっと頑張らねば、とか、
今の自分は病気だし、お金もないし、最悪や、とか、
何もしないでプラプラしてると不安になる、とか(👈僕)
何につけ、僕たちは〝今〟が気に入らない。
こんな〝今〟はイヤや、と駄々をこねまくっている。
しかし、今、見えて、聞こえて、感じている
これしかないで、という話である。
今のこの現状がイヤで、別の現状に逃げたくなるとき、
ちょっとそのまま踏ん張って、その今をよく眺めてみる。
概念的なことではなく、目の前にあるパソコンや、
コップや、料理や、道行く人を、ちゃんと目で見るのだ。
今見えているものに感謝、とか、愛で見よう、とか、
今今今、今この瞬間を感じる、なんてやらなくていい。
ただ、見えているもの、聞こえるものだけの中に、
むき出しで悦んでいる、素粒子のざわめきのまま、
日常生活を送ればいい。
嫌なことがあるから今に居れない、ではなく、
心が平安だから今に居れる、でもない。
みぞおちビュンビュンならビュンビュンのまま、
それで赦され、救われ、カタがついてしまっている。
その活動の有り様(よう)だけに留まる。
こうして、今に開き切っていると、不思議なことに、
思いもよらない〝ご縁〟が現われ、個の自分では、
想像もできないような展開が起きたりする。
今この瞬間の〝点〟に入ると、
カフェの店員さんの中にすべてがあるように見える。
人生に迷っている兄弟は、とにもかくにも、
こんな状況イヤや、と今から逃げたりせずに、
ちょっと踏んばって、目と耳だけになってみる。
こうして、今が整えられることによって、
へっ、こんな展開になるなんて、というような、
不思議な縁に触れることができる。
そして、今の僕がまさしくそんな感じである。