👆 日曜日、家の近くの桜ノ宮公園を散策する
土日は人の少ない市内にいるのが一番
一周まわって普通の人、をやっているボクである。
いま、これをやろう、という思いが出てきたら、やる、
いま、これを言いたい、と思ったら、ためらわずに言う、
怒りたかったら怒り、ちょちょ舞う時は、ちょちょ舞う。
瞬間瞬間で完結していて、後に引きずることがない。
また、他者が何を言ったりやったりしていようと、
その瞬間瞬間の現われとして見えているため、
その言動を見て、この人はこういう人なんだ、
という〝決めつけ〟もない。
「大阪のおばちゃんやんけ!」と自分でも思う。
ただ、僕とおばちゃん達との間に違いがあるとすれば
それは、ここが夢だ、と完全に知覚していることと、
帰るべき場所を智っている、という点にあるのだろう。
そして、この差はとても大きいのだと思う。
👆 このあと、インド料理を食べに行く
この世界は、寝ている時に見る夢と同じ幻影で、
本当ではなく、故に、なんら深刻になる必要などない、
を〝考え方〟や〝頭の解釈〟だけで捉えてしまうと、
じゃあ何をしてもいいんだ、このままでいいんだ、と、
自分がこれまで、恐怖からやっていたり、
不安からやってこなかったことを、それでいいんだ、と
納得させるための材料として使ってしまったりする。
例えば、本当はきちんと話し合って解決しなければ
ならないのに、いいんです夢だから、みたいな…。
いや、別にそれでも、なんら問題はないのだ。
なぜなら、
「何をしたって、しなくたっていいんです、夢だから…」
という夢をずっと見続けていくだけなので(笑)、
本人がそれでよければ、全然オーケーな話である。
しかし、幸か不幸か(笑)、
自分は本来このような、夢見る存在ではない、
ということを〝智覚〟してしまった兄弟たちは、
もうこんな世界はうんざりだ、夢を終わらせて、
本来いるべき場所へ目覚めて帰ってゆきたい、
という〝意志〟を以って夢を生きてゆくことになる。
そう、この〝意志〟が、向かう先を方向づけ、
兄貴による導きを可能にするのだ。
そして、神に向かう意志を持って夢を生きる時、
そこには、愛や慈しみの想いが発露してくるため、
兄弟を傷つけようとか、夢なので何をしてもいい、
などという、斜に構えた発想は絶対にでてこない。
そもそも、人を傷つける行為は、愛ではなく、
恐怖からしか生まれてこない、と思う。
よく、聖霊兄貴のガイダンスに従う、と言うが、
僕の場合、自分無しで兄貴、自分がそのまま兄貴、
みたいになっていて、
ガイダンスに従っている〝自分〟がいないので、
兄貴に訊く、という感覚がよく分からない。
なので、自分が思ったり言ったりしたことは、
たとえそれが、
全然、神っぽくないものであっても(笑)
兄貴の想いであり、何ら問題がない。
例えば、自分が誰かにバカ、と言ったら、
それがそのまま兄貴の想いになっていて、
そこに何の罪悪も迷いもないのだ。
それが、僕の場合の、
一周回った普通の人、となっている。