先週、今年最後の梅を見ようと、車を飛ばし、
三重県にある鈴鹿の森庭園まで行ってきた。
意外にも、大阪市内から、1時間ちょっとで行けた。
天気も良く、梅たちは、自らを誇るように咲いていた。
寒い時期に咲く梅の花は、花の色も濃いせいか、
はかなげな桜よりも、どこか凛と力強く見える。
中でも、大ぶりの枝垂れ梅の数々は圧巻で、
辺り一面、梅のよい香りが漂っていた。
僕は30年以上も、亜熱帯地域の香港にいたので、
季節ごとに咲く日本の花々に、感動しきりである。
そして、咲き誇る梅の花を見ながら、思ったのは、
その花にはその花の、咲く時期が決められており、
時期が来れば、ちゃんと花が咲くようになっていて、
しかも、梅の木に桜の花が咲いたりしないように、
花たちは、寸分の狂いもなく、自分の花を咲かせる、
という事実である。
たくさんの人たちから鑑賞されるこの梅の木たちも、
花が咲くまではただの〝枝〟にしか見えない。
誰からも振り向かれることなくただそこに在るだけだ。
だが、表面的には枝にしか見えないこの時期に、
内側の深い部分で、様々な営みが起こっている。
夏の暑さや冬の寒さを〝耐え忍ぶ〟ことで、
春には立派な花を咲かせることができる、みたいな、
根性論的なことを言いたいのではない。
そうではなく、無職、ニート、うつ、人生の挫折、など、
社会的または生産的活動を何ひとつしていない、
〝枝だけ〟のように見えるそんな時期にこそ、
バックグラウンドでは、花を咲かせるための、
様々なプログラミングが進行しているので、
安心して、無職や、ニートや、うつや、挫折感で絶望、
をやっていればいい、ということが言いたかった。
例えば、仕事や収入が激減してしまった時、
または、無職で次の仕事がなかなか見つからない時、
不安に苛まれたり、惨めな気持ちに襲われたりする。
これは、帰国したばかりの時の僕なのだが、
スーツを着て颯爽と街を歩いているサラリーマンを
見ただけで、プラプラしている自分が無価値に思え、
言いようのない焦燥感に押し潰されそうになった。
それで、これではいけない、何とかしなくては、と、
恐れと不安から、職探しに奔走したりしたのだが、
やっぱりうまくいかなかった。
👇 働かないことへの罪悪感に苛まれていた
完全帰国したばかりの頃の僕
傍からは、ただの〝枝〟にしか見えない時期にこそ、
人智を超えたとてつもないことが行われている。
だからこそ、
不安や恐れから、目の前のものに飛びつくのをやめ、
自然の摂理を信頼して、じっとそこに留まってみる。
大丈夫、花が咲く時期はもう決まっているのだから。