👆 今日は試験の日
もうすぐ生徒たちともお別れだ
約一年半前、香港から日本へ完全帰国して、
母との慣れない実家暮らしに辟易していたとき、
もう一秒たりとも自分でない自分では存在しない、
誰かに指示されることも、誰かに使われることも、
さほど好きでもないことを、さほどいたくもない場所で
ただ安心のためだけにすることも、絶対にしない、
自分に正直に、自分を完全肯定して生きてゆく、
と、怒りにも似た感情が大爆発した瞬間があった。
本当の自分を表現して生きていけないのであれば、
世界中から嫌われて野垂れ死にしたほうがましだ、
そう強く覚悟を決めた瞬間、神がバーンと入ってきた。
思えば、あの時僕が、強烈に肯定し、寄り添ったのは、
自分ではなく、神だったのだ、と今ならわかる。
自分の本音に耳を傾け、YESと言ったあの瞬間は、
自分の中の神を受け入れた瞬間でもあったのだ。
👆 試験を終えて、わいわいガヤガヤ!
そもそも、自分とは何なのだろう?
いくら自分なんて幻想だ、実在ではない、と言っても、
どうしても無くならない〝自分〟という気配…。
特定できないけれど、私がいる、という感じ…。
苦手な人、絶対に許せない人、病気、お金、など、
それはただの解釈で実在ではない、と否定しても、
ずしんと重石のように、そこにある存在感…。
それが〝神〟だったのだ、と受け入れられた時、
恐怖や不安が、愛と優しさに反転した。
僕達は、神がいる感じ、神の気配を、
自分や他者の存在感だと思いこんでいる。
なので、自分を癒すことは〝自分に扮した神〟を
受け入れるのと同じく、とても大切な行為なのだ。
そして、自分だと思っていたものが、
実は神だった、ということが明らかになると、
夢の中で何が起きても、愛おしさしかなくなる。
何が出て来ても、神。何をされても、神。
みたいな…。
いや、もちろん、夢のシナリオは展開してゆく。
なんやコイツ、みたいな兄弟は出てくるし、
病気にもなれば、事故にも会うし、死にもする。
でも、神は、そんなものをはるかに凌駕している。
責められる恐怖心から〝ノー〟と言えなかったり、
体は、ちょっと立ち止まって休め、と言っているのに、
不安感から、動き回ることをやめられなかったり、
私は神に愛されている、と言う一方で、
自分をないがしろにしていたりする。
自分をちゃんと癒さないまま神を愛そうとすると、
色んな人や物事から責められるようになる。
なぜなら、
自分だと思い込んでいたその存在感が神なので、
自分を否定している時点で、
神を否定しているからである。
そして、自分が癒されている状態、というのは、
ノーと言えなくても、不安感から動き回っていても、
その想いそのものが神経由なので、何の問題もなく、
深刻になる必要など何もないことを、
本当の意味で〝智っている〟ことにある。