👆 この日は京橋の居酒屋〝とも吉〟で夕食
ウナギのサンドイッチ
会社には必ず、こいつだけはムリ、という同僚がいる。
しかし、表面的な状況は何も変わらないのに、
自分の中に、全てを受け入れる力強さが生まれると、
いままで怖くて、何も言えなかった相手に対して、
どうしてですか、と、一言、モノ申せるようになってくる。
僕も会社員時代、周囲に何の配慮もなく、
ずけずけ物を言うコンババ上司に悩まされ続けた。
しかも相手は僕より年下である。
会議の席で、ため口で嫌味を言われ、ダメ出しされる。
上司だし、言い争う勇気もないし、怖いし、と、
うじうじモヤモヤしながら、2年くらい我慢していたが、
今、ここで、ちゃんと対決し、決着をつけないと、
えらいことになる、と思った。
なぜなら、上司に扮して顕れているのは自分なので、
たとえ自分が会社を辞めて別の場所へ行っても、
別バージョンの同じ自分が出てくるからだ。
それである日、もう一世一代の勇気を振り絞って、
「なんでそんなことを言われなくちゃいけないんですか」
と、ぶるぶる震えながら、直接想いを相手にぶつけた。
(詳しい内容はリンクの記事を参照願います)
結果、これまで僕にそういう態度をとっていたことに、
本人は全く気付いていなかったことが判明し、
その後、相手の失礼な言動は一切なくなった。
これは、
僕が言い返したから相手が変わったのでもなければ、
もっと自分を主張しろ、と言いたいのでもない。
恐れてるままの自分ですでに愛の存在なのだ、と、
抵抗せずにそのままの自分を全受容できたことで、
僕の中に一種の〝赦し〟が起き、
相手に思いを伝えられるだけの強さが生まれたのだ。
言いたいことをずけずけ言う無神経な上司は、
「言いたいことを、思い切りずけずけ言いたい」
という自分の本音が、上司となって顕れた結果なので
たとえその上司が目の前からいなくなったとしても、
言葉で「NO!」と宣言して決着をつけない限り、
〝言いたいことを、思い切りズケズケ言いたい自分〟
が、兄弟に扮してどこまででもついてくる。
「私はすでに神に愛されているのだから大丈夫」
「聖霊兄貴に渡せば、私は何もする必要はない」
と言う言葉を、
恐怖から何もできない自分への言い訳にしない。
これらの言葉が有効になるのは、
自分に決着がついた、そのあとのことだ。
どんなに怖くても、どんなに逃げても、
必ずいつかは、他者として表れている本音の自分と、
真っ向から対決しなければならない時が来る。
それを信じたのは他ならぬ自分なので、
最後は自分で責任を取るしかないのだ。
そして、おまえはそんな存在じゃない、と、
他者として顕れた自分と真っ向から向き合い、
対決した後に出てきたのは、相手に対する、
とてつもない愛と感謝の想いだった。
相手にきちんと思いを伝えられたその瞬間、
全ての兄弟が友になったのだ。
なぜなら、
言いたいことを普通に言い合えるのが、
友だと思うから。
👇 コンババ部長ぶるぶる対決記はこちら
(なつかしいーっ!)