👆 名古屋で沖縄のアイスクリーム
自分の人生に顕れる、全ての人や事柄の中にある
〝感謝〟を見出しながら過ごしている。
(👆気づいたときだけだけど…(笑))
「ああ、有難いなあ!うれしいなあ!」という気持ちは、
フツーの日常の中に埋没していると見えなくなる。
スーパーで、398円で売っているお弁当、
スイッチを押せば、ぱっと明かりがつく日常、
パートナーが作ってくれる料理の数々、宅配便の人、
おしっこが出て、うんこが出て、歩けて、動けて、と、
考えてみれば、24時間、人生は感謝に満ちている。
それらの事をちゃんと知覚して生きてみようと思った。
そうなると、圧倒的にハッピーしかないではないか、
と思ったのだ。
そしてそれが、神を知覚して生きることだ。
当たり前にある感謝を阻んでいるのは不足感だ。
そして、不足感が他者との比較を生み、
天国からの分離感を強化する。
あの人は、自分よりもっと豊かな生活をしている…、
もう少しお金があれば、安心が手に入るのに…、
この部分さえよくなれば、自分はカンペキ…、
自分のパートナーはいい人だけど、ここだけがね…、
といった不足の想いが、感謝を見えなくさせている。
だからこそ、いまここにある有難さに気づくことは、
自分を癒して、神を取り戻していくうえで、
とても重要だと思うのだ。
だが、こう書くと、
じゃあ、どうしても感謝できないような事柄、
例えば、前回の記事で書いたような、
学校辞めたいと言いに行ってすったもんだ、といった、
ネガティブな事柄にはどう対処すればいいのか、
と疑問が湧いたりする。
僕の場合、嫌だ、嫌い、ツライ、悲しい、が出てきたら
無理に感謝へもっていこうとせず、そのままでいる。
モヤモヤしたまま気分の悪さを感じてみる。
で、これ言った方がいいや、と思ったら臆せず言う。
なぜなら、ちゃんと思いを相手に伝えることで、
たとえ、けんか別れしたって、結果がどうであれ、
受け止めてくれた相手に感謝しかなくなることを、
実際やってみた〝体験〟から分かっているからだ。
うーん、なんて例えたらいいんだろう。
同僚や友達や見知らぬ人とのすったもんだ、も、
なんか、親子や兄弟で言いたいことを言ってる感じ?
ていうか、吉本新喜劇をやってる感じ?
だから、罪にならないのだ。
まあ、大阪のおっさん、と言われれば、そうだけど…。
それでも、
498円のワインがこんなにおいしいなんて、とか、
駅のホームで落としたハンカチを拾ってくれた、とか、
今日も朝ドラ見れた、というような、
膨大な感謝の量に比べれば、
こんな、すったもんだなど、点の点の点、ではないか。
結局、
不足感も、愛を求めているだけで、何も悪くない。
だからこそ、見過ごされる神の光を、
感謝という感覚で見つめていこうと思っている。