香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

鍵は兄弟が持っている



これまで、自分ではひとつも何かを考えたことはなく

何ひとつ決めては来なかったのだ、ということが、

ありありと見えている今日この頃である。


これは自分で選んで決めたことだ、と思っているが、

ようくようく、その想いの発生源をたどってみると、

突然〝ふっ〟と湧いてきた考えを捉え、

それを、自分で考えた、と思っているに過ぎない。


それは奇跡講座の実践においても同じである。

赦そうとする想いや、聖霊に委ねようとする想いや、

兄弟を神の子として受け容れようとする想い、なども、

ただ、ソーダ瓶の底から湧き立つ泡の筋のように、

〝ふっ〟とその想いが湧いてきているだけである。

なにひとつ、自分で〝赦そう〟と決めてはいないし、

自分で何かを赦してもいない。


だが、

聖霊は常に幻想を取り消すために、様々な形で、

実相からの〝ふっ〟を送り続けている。

その〝兄弟を赦したい〟〝聖霊に委ねたい〟

といった聖霊から発せられる〝想いの泡〟を、

ちゃんと認識し、見つめ、聴きとめてゆく。

そうやって、僕たちは赦され、癒されてゆくのだ。


↑和食攻め!
要するに、どういう事かというと、

赦そう、委ねよう、明け渡そう、という想いが、

思考の中に自然と顕われ出てくるということは、

聖霊の想いが顕われ出ているのである。


それは同時に〝一なる眠れる神の子〟が、

あると思い込んでいる罪悪感は〝無〟だった、

ということに気づき、夢から目醒め始めている、

ということをも意味する。


そうやって僕たちは〝全体として〟目を醒ますのだ。


↑ 和食攻め2

というわけで、先週、大阪滞在中の木曜日、

もともと入っていた名古屋出張が突然飛んでしまい、

おかげで、とある、バリバリスワットなコース兄弟と、

一緒にランチ&お茶をすることができた。


〝決めたこの道まっしぐら〟な兄弟との語らいは、

やはり、とてつもなく貴重で、楽しいものだった。


中でも、僕の中で深く入ったのが、

天国(父が待つ故郷)へ帰る鍵は兄弟が持っている、

というシェアだった。


兄弟を責めるのは神を攻撃しているのと同じであり、

故に、自分を傷つけているのと同じである。

よって、全ての兄弟の中に宿る神を祝福することで、

互いの鍵を共有することができる、ということだ。


帰宅後、祝福の意味を辞書で引いてみたら、

〝相手が幸せであることを歓ぶこと〟とあった。

おお、なるほど…、ナットク!

愛の泡ぶく



先週の後半は兄弟てっちゃんちで過ごした。

これまで、兄弟てっちゃんちでの滞在中は、

良しにつけ、悪しきにつけ、かならず、何らかの、

自我の葛藤が上がってきたりしていたのだが、

今回の滞在では、そんな想いは一切出てこなかった。

(相手側がどうであったかはわからないが…。)


これもただ、現れては消えてゆき、

そして、それを捉えている〝誰か〟もいない。

眠れる神の子が見ているひとつの夢に過ぎない。


↑胡桃堂喫茶店での語らい


一なる神の子は、父から離れた、という、

罪悪感からくる、巨大な恐怖を忘れるために眠った。

当然、神の子が見ているのは〝罪悪の夢〟だ。

だから、僕たち一人一人に上がってくる〝ふっ〟が、

罪悪の想いで占められているのは至極当然なのだ。

しかし、罪悪の夢の中には聖霊が置かれている。

憎悪や、心配や、攻撃や、防衛の〝ふっ〟の中で、

赦そう、感謝しよう、明け渡そう、委ねよう、

という小さな想いがふっと上がってくるそれは、

聖霊兄貴から発信されたものである。

決して個の自分が、赦そう、とやっているのではない。

だから、〝ふっ〟の想いだけでできている僕たちに

できることは、残念ながらほとんどない。

ていうか、何をやったところでそれは、

自分でやってると思っているだけで、

実際には、どこからともなく湧いて出てくる、

勝手な想いに支配されている。


赦すことでさえ、聖霊からの〝ふっ〟でやっている。


その中で、泡ぶくの自分に唯一できることは、

聖霊から上がってくる想いを捉えることだけだ。


そのときに、エゴでさえ愛だったことが理解できる。

「エゴなんて存在しないよ。バシッ!」ではないのだ。

そうして〝愛の泡ぶく〟で想いが満たされることで、

エゴはピヨピヨと、喜んで消えていく。



また、

最近、夢の世界が変化してきたな、

平安になってきた感じがする、と感じられるのも、

夢を見ている眠れる神の子自身が

癒され始めている証拠だ、と言える。


この幻想世界の夢は神の子が見ているので、

神の子が癒されれば、夢で起きていることが、

愛と調和に満たされるのは自然なことである。


だから、

たとえ、どんなエゴのびゅんびゅんが襲来しても

安心して、聖霊からの〝ふっ〟に集中して、

そこに委ねていればいい。

もともと存在すらしていなかったエゴは、

排除によってではなく、愛によって消えてゆくべきだ。

先週は、甲府でも大阪でも和食三昧だったので、

肉が食いたい、と、さおちゃんに駄々をこね、

ものすごい分厚いタスマニア産牛肉を焼いてもらった

さおちゃんが焼いたステーキはもう、塩加減と言い、

焼き加減と言い、絶妙で、めちゃうまかった。


東京での時間は、

吉祥寺で夕食→朝まで語らい→裸の王様で語らい→

オシャレ喫茶店で語らい→ドカ食い夕食→

さおりっぺと朝5時まで語らい(T大師は爆睡)→

羽田で語らい、とまあ、いつも通りの感じで過ぎた。

10月の後半、兄弟てっちゃんたちは、

乙女ののりちゃん主催のカースティン来日リトリ?

に参加するようだが、以前の僕であれば,

「オレも、オレも!」という感じで参加してたけど、

いまはもう、スピ的な何かの集まりに参加することに、

まったく興味が無くなっている。

それらの集まりに行くことで出会える、

コース兄弟達との語らいは楽しいのは分かっているが、

何ていうか〝誰かを中心〟に何かを学ぶことに、

どんな意味も見いだせないのだ。


と言うわけで、

大阪で会ったコース兄弟の方、てっちゃんさおちゃん、

本当に今回はお世話になりました。

全体でひとつ



先日の二度に渡る強烈な体験からしばらくが経過し、

本当に、ここは、眠れる一つの主体が見ている、

一つの夢でしかない、ということが、

肉体レベルにまで浸透しつつある今日この頃である。

と同時に、同僚、会社、香港の生活、憎悪の相手、

などが、次々と削除されていったからくりが、

ここへきてようやくつまびらかになった。


全ては全体で起きていて、

個の自分など無であるが故に、

全体の夢の中を赦すことによって、

夢の設定の削除が可能になっていたのだ、と…。


全体でひとつの幻想世界なので、

私とあの人、億万長者とホームレス、社長と社員、

大スターとエキストラ、習近平とトランプの間に、

なんら差異はなく、どちらでも入れ替え可能となる。


〝いつでも今、どこでもここ、そして、誰でも私…。〟

そんなふうに今後はなってゆくのだろう。


ただ、ひとつだけ、大切なことは、

この壮大な夢の世界は一体、誰が作っていて、

誰が見ているのか、という認識である。


罪悪もなければ、分離もなかった、という理解は、

自分に起きているのではない。

なぜなら、自分などないのだから…。

罪もなければ、エゴもなかった、という想いが、

〝ふっ〟と湧き起こってきたのは、

ひとつの眠れる神の子に、同様の気づきが起き、

その気づきが、聖霊経由で〝想いの泡ぶく〟となって

幻想の中に〝智識〟として湧き上がってきている。

そうやって、まず、夢の世界が癒されることで、

眠れるひとつの神の子は目醒めへと向かうのだ。

というわけで、大阪にいる。

昨日は谷町4丁目にある得意先の会社を訪問し、

フィリピン工場の財務状況を報告してきた。

10月からこの会社と顧問契約を結び、今後、僕が、

フィリピン工場の財務改善をすることとなった。

そのため、今後はフィリピンと大阪出張が増える。

帰りに、梅田阪急裏にある〝紅白〟という店で、

ワインとフランスの田舎風料理で夕食を済ませた。

ここは、カウンターだけの

フランス風の創作料理が評判の店で、

世界各国の色んなワインが500円くらいで試せる。

店内は、会社員やOLなどのおひとりさまが多い。

特に、ひとりカウンターに腰かけ、

シャンパンなんかを飲みながら食事をする女性は、

見ていてすっごくカッコいい。


そんな僕も、ネクタイを外し、白ワインを飲みながら、

もう、今の仕事を続ける意味もないのではないか、

と思ったりしていた。

全体が一つで動いている事が完全に解っているので

仕事を辞めたとしても、全く不安や恐怖を感じない。

ていうか、どんなことになっても、それは、

起きることがおきているだけで、すでに完璧である。


眠れる神の子が観ている全体の夢の中で、

僕が何をしようと、或いは、何もしなくても、

それは量子の最適化にも似て、完璧な配置となる。


↓量子の最適化についての記事はこちら↓

りょうこちゃん - 香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

量子兄貴 - 香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー