香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

悪いのはいつも他人

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決断の主体の位置から、やっていることを見ていると、

 

自分はいつも正しく、悪いのは常に他人、という、

 

どこまでもワンパターンな投影があることに気づく。

 

 

〝彼が発した一言は私を傷つけた、故に彼は有罪だ〟

 

〝私の平安を乱した奴は、大きな罰を受けるのだ〟

 

というふうに…。

 

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また、人以外の、ちょっとした状況や出来事にも、

 

〝死ぬのはいつも他人パターン〟を使っている。

 

 

今日仕事帰りに、マイヤーズラムを買おうと、

 

AEONの酒屋さんに立ち寄ったら売り切れていた。

 

他の店を覗いても売り切れで、結局買えずじまいだった。

 

「仕方がない、そのうち入荷するだろう。」

 

と思いつつも、決断の主体の中を覗いてみれば、

 

自分は無実で何も悪いことをしていないのに、

 

無実の自分が欲しているラムを置いていないなんて、

 

なんということ、有罪だぁーっ! とやっている。

 

 人だけではなく、状況をも断罪している。

 

 

また、数か月前に、突然の東京帰任命令を受けた際も、

 

香港から離れる喪失感に見舞われたりしたが、

 

これも、決断の位置に戻ってみれば、

 

香港は善で、東京は自己の平安を脅かす悪だ、

 

とやっていたことも、ありありと解かる。

 

それも、

 

もとはひとつだった意識が二極に分かれ、

 

高速早変わりで、一人芝居をしている。

 

 

そして、一番の要(かなめ)は、

 

それを自分で望んで選択してたんだあ、という点にある。

 

自分は無実なのに、ひとから責められ攻撃されることを、

 

自ら欲してやっていた、と認めるのは非常にキツい。

 

思わず、そんなこと自分はやってない、と、

 

弾き返したくなる。

 

なぜなら、自分で自我を選択していた事を認めてしまうと

 

これはただの選択で、聖霊に選び変えることができる、

 

と、気づいたしまうからだ。

 

そうなると、自我は消えるしかなくなり、そのため、

 

さまざまな罪悪感を強化するようなものを出してきて、

 

何としても最後の砦を守り抜こうとするのだ。

 

 

しかし、

 

「ああ、全部わたしがやっていました。

 

 この世界で苦しむことを選択したのは、わたしでした。

 

 でももうウンザリなんです。もう、止めたいんです。

 

 なので、わたしは今、聖霊を選択し直します。

 

 自分ではもう何もしませんので、よろしくお願いします」

 

と、口先ではなく、心からの懇請が起こらないと、

 

決断の主体へはたどり着けない。

 

「決断の主体から見ればいいのね。はい、やってみます」

 

というわけにはいかないのだ。

 

 

だが、最速で投影のベールを打ち破る手段がある。

 

地獄経由である。

 

上司やパートナーや家族と史上最悪の関係にある、とか

 

身体が不自由だ、壮絶なイジメに遭っている、破産した、

 

など、こういう時こそ、神(天国)に最も近い場所にいる。

 

もう、この世界にはいたくない、こんな世界は要らない

 

と心底望み、聖霊に助けを求めたとき、

 

一直線で〝ここ〟へゆく。

 

ただ、誤解を避けるために言うならば、これは、

 

自殺などの死を以って天国へ逝くという意味ではない。

 

 

しかし、そこまでのことをせずとも、

 

普通の暮らしの中でも十分赦しどころは満載なので、

 

まずは、差し出されたものからやってゆく。

 

 

といっても、僕は、決断の主体に戻りたてホヤホヤの

 

初心者なので、まだまだこの世界を実存させている。

 

社内のスカイプ会議で、ちょっとツッコまれれば、

 

しどろもどろになって、びゅんびゅんするし、

 

必死のパッチになった自我からの逆襲も来る。

 

それでも、

 

自我と同一化することなく、決断の主体に留まり続ける。

 

そうやって、実践していくことで、決断の主体が主になり、

 

やがては聖霊とひとつになってゆくのだろう。

 

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そして、僕の場合、決断の主体にいても、

 

立ち上がれない程の強烈な隠蔽が浮上してこないのは、

 

やはり、この5年間、強制帰還道場(別称:会社)で、

 

朝から晩まで、幻想を直視し、

 

次々に顕われる事象や兄弟たちを、

 

ガンガン狂ったように赦しまくってきたからかもしれない。

 

そういう意味で、兄弟たちには大きな大きな恩義がある。

 

(いや、まだまだこれから、なのかもしれないが…。)

 

 

というわけで、僕はいま、会社で業務をこなしながら、

 

決断の主体に留まった場所から、

 

これは全て決断の主体の中で起っていること、として、

 

聖霊に選択し直していっているが、

 

会社員を続けるかもしれないし、辞めるかもしれない。

 

ていうか、どっちでもいい。聖霊にお任せ、すらしない。

 

だって、これ、実在してないんだから。

 

 

なので、僕はもう本当の神の平安だけを得たい。

 

偽の平安は必要ない。却って障壁になるだけだ。

 

 

とまあ、こんな感じの今日この頃である。

紀平選手やってます

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奇跡講座を教えたり、奇跡講座的活動をすることで、

 

生活の糧を得ている方もたくさんおられると思うが、

 

僕なんか、もっとすごい。

 

会社からお金をもらって、奇跡講座をやっている。

 

しかも、ボーナス、有給休暇付きで…。(←ドヤ顔のボク)

 

 

もちろん、仕事だってそれなりに(笑)やってるよ。

 

でももう、完全に赦しが仕事になってしまっている。

 

(※ああ、このブログを社長が見ていないことを祈るよ!)

 

 

例えば、同僚と打ち合わせをしたり、電話で話をしたり、

 

メールを読んだり、デスクワークをしたり、

 

何人かで他の同僚の噂話をしているようなときでも、

 

ずっと、決断の主体の位置から、聖霊と共に、

 

分離など起こってなかった、と無実の兄弟達を観ている。

 

 

このように、ずっと、

 

決断の主体の位置に一点集中して過ごしていると、

 

全部、決断の主体の位置だけで起きている事が解る。

 

外側では何も起きていないし、故に無意味だ、

 

と、ありあり実感できる。

 

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↑ 銀行に行ったら獅子舞やってたよ!

 

で、春節が過ぎ、明確に変わったのは赦しの質である。

 

 

これまでは、幻想世界の出来事から浮上する罪悪感を、

 

その都度、決断の主体まで運び、赦していたが、

 

いまでは、逆に、決断の主体の位置から、

 

分離させた自己と他者のやり取りを、

 

それは起きていない、分離もなかった、と赦している。

 

 

これはただの〝罪悪の投影〟という、

 

一人でやっている〝罪の押し付け合い劇場〟で、

 

ひとつの間違った心(自己概念A)がやっている。

 

自己の罪も、他者の罪も、ここから見れば、

 

ひとつのものだった、ということが明らかになる。

 

 

ただ、この感覚は、非二元や悟り系が言うような、

 

肉体の自分を、もう一人の自分が冷静に観察している、

 

というのとは完全に違っていて、なんていうか、

 

決断の主体の中で全部が起きている。

 

「なあんだ。ここだけじゃん!」といった感覚なのだ。

 

 

「相手に罪を投影して自分が正しいと主張したいんだ。 

 

 でも実は、ひとつの意識がやっている。

 

 だから、攻撃も自分が自分にしているんだな。

 

  なにより、それを決断したのも自分だった。」

 

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↑ 子犬がダンスしているみたいでとってもかわいい

 

仕事中も、寸分の隙もなく、この位置にいる。

 

業務上の問題点、期日までにやるべきこと、など、

 

日々様々な兄弟たちが僕の眼前に顕れては、

 

様々なパフォーマンスを見せてくれる。

 

その中で、決断の主体に留まりながら、

 

これも〝ここ〟だけで起きていて、

 

外では何も起きてない。

 

相手がいるように見えているけれど、

 

それも、ひとつの意識を分離させて見ている、

 

ひとり芝居に過ぎないんだ。

 

そもそも分離などは起きておらず、

 

故にこれは妄想なんだ、ということが、

 

明白に見えている場所から聖霊に選び変えてゆく。

 

 

でも、最初からそううまくはいかない。

 

でも、何度も、何度も、何度も、数をこなしていくうち

 

仕事中でも、決断の主体の中に留まれるようになった。

 

 

昔は、仕事中に一体どうやって内側をキープするのか、

 

と不思議に思っていたが、なんのことはない、

 

はなから内側の〝ここ〟でしかやっていなかった。

 

決断の主体で選び間違えていたからこれが起きていた。

 

そうなると、内側に留まっている方がラクに思えてくる。

 

 

それに、企業などの一般社会で実践していると、

 

嫌でも数をこなすので、静かな環境で学んでいる人より、

 

熟達度が半端なく加速化することは間違いない。

 

何しろ、次々来るので、赦しを休んでいる暇が無いのだ。

 

 

それで、最後には、

 

仕事でさえ起きてない、だって自分もいないから、

 

という所まで来る。

 

  

考えてみれば、フィギュアスケートの紀平選手だって、

 

休む間もなく、狂ったように練習しているから、

 

普通にトリプルアクセルが飛べるようになったのだ。

 

そういうわけで、

 

数をこなせる環境にいるのはラッキーだと言える。

 

 

なぜなら、自我の大気圏を抜けようとするとき

 

重力(向い風)に耐えながら実践する時期を通過する。 

 

従って、日常で何の負荷も感じていない、ということは、

 

まだ地上に留まっていたいということなのかもしれない。

 

それはいわば、自分が乗ったロケットは発射され、

 

今頃は火星の辺りかな、と思って窓から外を見たら、

 

なんとロケットは発射すらしておらず、

 

自分の家が見えました、みたいな…。

 

これって、ホラーだよ。

 

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全部、全部、この、眠った神の子の中でやっている。

 

〝ここ〟でしか起きていない。

 

しかも、神との分離は起こっていなかったのだから、

 

全ては夢で存在すらしていない。

 

その位置から、

 

神の愛を拒否する選択をした自分を潔く認め、

 

分離は起こってなかった、と、聖霊を選択し直す。

 

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↑ 一匹の獅子が近づいてきて僕の頭を噛みに来た。 

  神にキターっ、と自ら食い気味に頭を差し出した。

 

もう、一日中、そんなことばかりしてるせいか、

 

仕事を終えて会社を出ると、

 

外側の世界のリアル感が完全に喪失してしまっている。

 

まるで、外側が夢で、内側が現実世界になったみたい。

 

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聖なる感動を奪うもの

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↑ 毎朝二階建てバスの最前列に座って通勤している。 

 

去年の秋くらいだったか、ある学習者の方が、

 

ご自身が体験した、ある神秘体験をシェアされた。

 

それはもう、世にも不思議なすごい体験で、

 

僕たちはへえーという感じで、聞き入っていた。

 

しかし、その学習者の方がおっしゃるには、

 

この体験は人にあまり話したくなかったらしい。

 

なぜなら、もし、この話を聞いた人が、

 

いつか自分と同じ体験をしたとき、

 

「ああ、これは、あの人が語っていたあの体験ね。」

 

と、瞬間的に思い出させることで、

 

その人の感動を半減させてしまうからだ、というのだ。

 

本当にその通りだな、と思った。

 

 

様々なスピ本を読み、様々なワークショップに参加し、

 

様々なメソッドを学んでスピ的知識が豊富になってくると、

 

無意識にやってしまうのが、スピ知識のカテゴライズだ。

 

 

その人が、独自の聖なる体験をしているにもかかわらず、

 

「ああ、それは誰々さんも体験した、あれですね。」

 

「あの人も同じことを言ってた。」

 

「それは、何とかという本に書いてあった。」

 

「それは、その段階ではよくある体験なんだよね。」

 

などと、どこかのカテゴリーに入れてしまうことで、

 

自分や相手から〝聖なる感動〟を奪ってしまうのだ。

 

 

その奥には無意識の〝すり替え〟が潜んでいる。

 

聖なる感動(ハートの悦)を、

 

よくあること、にすり替え、安心している。

 

ハートに触れることから逃げている。

 

 

その人が体験したことは、その人独自のものであり、

 

どんなカテゴリーにも入れてはいけないものだ。

 

なので僕も最近、多くのコース兄弟と接するようになり、

 

この点については気をつけねばと思った次第である。

 

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話は変わって、数年前までの僕は、

 

赦しが進んだマスターと言われるような人たちは、

 

なぜパレスチナや北朝鮮などの赦しの最前線に赴き、

 

そこで赦しの実践を行なわないのだろう、と思っていた。

 

 

赦しの達人と呼ばれるようなバリバリの教師が、いま、

 

最も天国から遠いように見える場所で赦しを行なえば、

 

そこはきっと天国に変わるに違いない、と…。

 

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でも、最近、思うのだ。

 

平和な日本で、肉親やパートナーから言われた、

 

自分を修羅に変えるような一言を赦すのは、

 

戦争地帯で殺し合っている人々を赦すより難しいと…。

 

 

なぜなら、後者の環境に身を置いてみると、

 

もう一目で、こりゃだめだ、狂気だ、こんなの間違ってる、

 

と理解できるし、その戦争に自分は関与していないので、

 

もうこんな世界要らない、と即行で手放せたりする。

 

しかし、自分を名指しでガンガン断罪してくる相手を、

 

無罪と観るのはなかなか難しい。

 

 

だがしかし、 

 

そういった、僕たちのイラッ、ムカッ、といった感情が、

 

地球の内部に集結し、それが、ある日、ある地点で、

 

一気にバーンと噴火する。それが戦争だと思うのだ。

 

 

要するに、

 

戦争をしているその地の人たちに問題があるのではなく

 

問題は、僕たちの日常の小さな憎悪にあると言える。

 

なので、

 

戦争のない世界を実現するには、なにはともあれ、

 

各自の中で相手に抱いている〝小さな殺意〟を見つめ、

 

それは自分で選択していた、ということを認識して、

 

手放してゆく事が大切だと思うのである。

 

まあ、そう考えてみれば、戦争地帯に赴くまでもなく、

 

自分がいまいる場所こそが、戦争地帯であり、

 

狂気の最前線だった、と理解できる。

 

要するに、

 

見せ方が違うだけで、この幻想世界はどこへ行っても

 

同じひとつの投影でしかない。

 

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というわけで、

 

決断の主体だけが問題で、全部そこだけで起きている、

 

という、体感レベルでの理解の中にいる。

 

決断の主体に常に留まり続けていると、

 

投影のパターンは至ってシンプルであることが分かる。

 

そんな中、僕の赦しも、さらなる佳境を迎えつつある。

 

次回は、そんな僕の徹底した実践の日常をお伝えする。