香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ジェット最終便

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昨日から一泊二日でフィリピンへ行ってきた。

 

だが帰国日の今日、

 

台風五号がフィリピン北部を通過中とかで、

 

空港のあるクラーク周辺はすごい暴風雨となった。

 

一瞬、フライトキャンセルが危ぶまれたが、

 

クラーク発香港行きの最終便で、何とか戻って来れた。

 

雨がすごかったので、お昼は工場の食堂で済ませた。

 

味の濃いフィリピン料理はとても美味かった。

 

しかし、そのあと、ちょっと、お腹の調子が…。

 

それでも、神を感じて〝ひゅんひゅん〟していた。

 

〝びゅんびゅん〟ではない。

 

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⇑ 夕食はいつもの テキサス・ジョー で、

  日本から出張していた同僚とステーキを食べる。

 

ここ最近、ハートのエクスタシーの中で生きている。

 

〝神〟という、ひとつの解釈だけを通して、

 

あらゆる人や、物や、事を観るようになっている。

 

会社の同僚や、自分のスマホや、果ては恐怖までもが、

 

〝神〟の解釈の中では、同じ歓びと感謝の体験となる。

 

 

これまで、

 

日常生活で湧き起こる様々な動揺や葛藤を直視し、

 

原因へ戻ったところからその罪悪感を赦していたが、

 

最初から〝神の想い〟の中にいたことを理解することで

 

無数の投影を一つ一つ見てゆくのではなく、

 

神というひとつの反映だけを〝感じて〟ゆく。

 

 

どんな景色を見ても、どんな音楽を聴いても、

 

どんな人に会っても、神の感じ方ひとつしかいない。

 

そうするうち、いつも神と一緒にいる、という、

 

確固たる自覚の中で行動できるようになる。

 

 

世界を神の解釈で観れるようになると、

 

〝さまざまなバージョンの出来事〟は消失し、

 

ひとつの間違った解釈をしていた、ということに気づく。

 

なので、自我の投影をメインにして赦すのではなく、

 

神の反映をメインにして、すでに赦された世界を感じる。

 

それがある意味、僕にとっての思考の逆転となっている。

 

 

それでも、

 

動揺や葛藤からくるびゅんびゅんが上がってきたら、

 

はっ、と自我の解釈に気づいて立ち止まり、そして、

 

神から分離したことを信じた、というたった一つの問題は

 

すでに解決されていることを思い出すことで、

 

そこから、ハートへ戻ってゆく。

 

ハート(神の想い)にまで辿り着くことで赦しは完結する。

 

 

要するに、全ての問題はひとつのところから来ており、

 

全て同じであることを、ひとつひとつ認識してゆくこと、

 

それが神を思い出すことであり、赦し(訂正)となる。

 

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⇑ ホテルで朝食を注文したら二食分来た。 

 

そんな折、クラーク空港の搭乗口で搭乗を待っていた時

 

たまたま空いている席に座ろうとしたら、

 

そこから数席離れた席に腰かけていた男から、

 

連れが来るのでここに座らないでください、と言われた。

 

ああ、そっか、と、僕は、その斜め後ろの席に腰掛けた。

 

だが、最後まで、連れが来ることはなく、搭乗が始まると

 

男はひとり立ち上がり、列に並んでいた。

 

要するに男は、

 

その並びの席を、ひとりで使いたかっただけなのだった。

 

 

一瞬、身勝手な男に対する嫌悪感が込み上げてくる。

 

それからすぐ、間違った解釈をしていることに気づき、

 

その嫌悪感を直視しながら、原因は神から分離した、

 

と思い込んだことから来ていることを思い出したあと、

 

そんなことは起こっていなかったと解釈を取り下げる。

 

あとは、ただ頭を無にして、ハート(神の想い)を待つ。

 

最後に、その〝座席独り占め男〟に対する想いが、

 

神の子に対する想いに変わったのを確認して完結。

 

 

文章にすれば、まあこんな感じだが、

 

完結までの時間は、せいぜい1~2分くらいだろうか。

 

大切なのは〝聖霊に全托〟までで終わるのではなく、

 

毎回、必ず、神の想い(ハート)まで到達していることを、

 

確認する、ということだ。

 

ただ、自分で(が)到達しようとしないこと。

 

僕の場合は、

 

兄弟が神の子だと分かっている感覚が戻っていれば、

 

一応フィニッシュ、としている。

 

 

というわけで、眠い。

 

おやすみなさい。

 

 

神が来た道

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新しいマンションは、ひとつの階に4つしかフラットがなく、

 

とてもこじんまりとしたマンションである。

 

僕がエレベーターを待っていると、隣に住む、

 

80歳くらいの老夫人が出てきたので、挨拶を交わした。

 

彼女曰く、僕の前に住んでいた西洋人の男性は、

 

毎週のようにホームパーティーを開くので、

 

うるさくて仕方がなかったらしい。

 

「あなたは日本人で礼儀正しそうだから安心だわ。」

 

と、勝手に決めつけられてしまった。

 

聞くと、この階の住人は全員が80歳代なのだという。

 

そう言われてみれば、エレベーターなどで出会う、

 

住人たちのほとんどが、お年寄りばかりだ。

 

守衛のおじさんでさえ、どう見ても80歳くらいである。

 

小さな古いマンションなので、若い頃に家を買い、

 

それから長く住み続けている人が多いという。

 

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⇑ 今年、初ライチ。 

 

というわけで、

 

最近、何かにつけ、ハート、ハートとうるさい僕であるが、

 

ハートを感じていれば罪悪感を直視しなくてもよいのか、

 

と言うと、そうではない。(少なくとも僕は…。)

 

僕の場合、みぞおちに感じる罪悪感を直視し、

 

それが無かったと確認されると、ハートが上がってくる。

 

 

例えば、先週も元コンババ部長から電話がかかってきて

 

「いま、香港支社の現金出納帳を見てるんですけど、

 

 この3,000ドルの支払いは何ですか?」と訊かれた。

 

「それはICチップの開発費で稟議も通ってますよ。」と僕。

 

「あ、そうなんですね。稟議も通さずに支払ったのかって、

 

 ちょっと怒ってやろうと思って電話したんですよ。」

 

と彼が言うと、電話の向こうから数人の笑い声がした。

 

その瞬間、僕の中に〝みんなの前で侮辱された〟

 

という、激しい怒りが込み上げてきた。

 

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⇑ 家からタイムズスクエアまで徒歩一分ですの。

    おーっほほほほ!

 

あ、この感じ方はおかしい、と一瞬立ち止まる。

 

それから、

 

自分で勝手に歪めてしまったハートを神へと返し、

 

最後は、一瞬静まり、ハートの声だけに耳を傾ける。

 

そこから、ハートに繋がる。

 

自我の投影として罪悪感を直視するのではなく、

 

自分の心の中の神の反映として世界を見るのだ。

 

 

みんなの前で侮辱された、という罪悪感を観るのではなく

 

神の想い(ハート)の中で歓ぶところから出発することで、

 

はじめから罪はなかったことを確認してゆく。

 

解釈無しに、ただ歓んでいるのだ。

 

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⇑ かつおのたたきと生ビール。神だぁー!

   

というわけで、金曜の夜はベトナム留学時代の友人と、

 

また、土曜の夜は25年来の日本人の友人と、飲んだ。

 

先ずは、それぞれの友人を僕の家に招いてワインを飲み

 

その後、近くのレストランへと夕食に出かけた。

 

その反動で、今日、日曜日は、ずっとお籠り状態だった。

 

ホームドラマ専門チャンネルで 『金曜日の妻たちⅢ』

 

を一挙放送していたので、イッキ見してしまった。

 

 

とまあそんな感じで、今後は多くの神の子達を家に招き、

 

たくさん神の反映を見てゆくつもりである。

 

友人の誰々さん、とか、経理課の山田部長が、とか、

 

お気に入りの服とか、どこどこのスイーツとか、

 

もう、そんな風に人や物事を見ることはない。

 

全てを神の心の反映として観てゆく。

 

 

ひゅんひゅん

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火曜の夜、シャワーを浴びようと、

 

給湯器のスイッチを押すが、全く反応しない。

 

温度も表示されないし、もちろん、お湯なんか出ない。

 

早速大家さんに言って、ガス会社へ連絡してもらうと、

 

修理は最速でも金曜の午後になるという。

 

仕方がないので、今日から数日、仕事終わりに、

 

ジムでシャワーを浴びてから帰宅することになった。

 

せっかくなので、ついでに筋トレもして帰る。

 

平日夜のジムは混みに混みまくっていて

 

使えるマシンなんかほとんどない。

 

仕方ないので腹筋とかマシンで走ったりして過ごす。

 

金曜日に給湯器の修理が完了しなければ、

 

僕のジム通いはさらに延長されるだろう。

 

ジムがアパートのすぐ近くにあって本当に助かったよ

 

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というわけで、どんどんハートへ戻って行っている。

 

一瞬立ち止まり、脳の解釈を止め、沈黙する。

 

すると、みぞおちの奥から、

 

ハート(神の気持ち)がじんわりと拡がってくる。

 

大好き、と、愛してる、と、嬉しいが入り混じった感じ。

 

そうやって、常にみぞおちの〝そこ〟にいると、

 

通りの木々や、同僚の声や、世界のあらゆるものが、

 

ハートの中に在るように感じられてくる。

 

自分がいま体験していることが父の想いであり、

 

ハートそのものだったと分かる。

 

今日、元コンババ部長と電話で話していたとき、ふと、

 

相手の声が、自分が発した声のように聞こえ、驚いた。

 

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目を通して見たもの、耳を通して聴いたもの、

 

舌で味わったもの、匂いで嗅ぎ取ったもの、

 

人種や美醜など、相手の顔の造りで判断されるもの、

 

または、相手の表情から受け取られる感情、など、

 

神を思い出させないために脳が解釈を行なっている。

 

そして罪悪感は、常に首から上を通ってやってくる。

 

なので、もし、ハートへ向かうコツがあるとするならば、

 

首から上ではなく、首から下(ハート)で思考することだ。

 

要するに、

 

神無しでは、僕達は夢すらも見れないということである。

 

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ジムでシャワーを浴びて帰宅してみると、

 

部屋がきちんと整えられていた。

 

靴は磨かれ、 ワイシャツにはアイロンがかかっている。

 

水やワインやティッシュなども買い足されてあった。

 

チョイ姐が来て掃除してくれたのだ。

 

 

チョイ姐に掃除や洗濯や買い物をお願いして、

 

かれこれ16年になる。

 

福建省の人で、旦那の暴力に耐えかね、離婚をし、

 

香港で新しい旦那を見つけ、今に至る。

 

ある意味、僕のプライベートを最も知る人かもしれない。

 

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窓からハッピーバレーの競馬場が一望できる。

 

疾走する馬を眺めていると、形容しがたい感謝と歓びが、

 

みぞおちの辺りで渦を巻いているのを感じた。

 

 

もう、直接神を感じていいんだ、と思ったら、悦びで、

 

ひゅんひゅん(びゅんびゅんではない)が止まらなくなった。