新しいマンションは、ひとつの階に4つしかフラットがなく、
とてもこじんまりとしたマンションである。
僕がエレベーターを待っていると、隣に住む、
80歳くらいの老夫人が出てきたので、挨拶を交わした。
彼女曰く、僕の前に住んでいた西洋人の男性は、
毎週のようにホームパーティーを開くので、
うるさくて仕方がなかったらしい。
「あなたは日本人で礼儀正しそうだから安心だわ。」
と、勝手に決めつけられてしまった。
聞くと、この階の住人は全員が80歳代なのだという。
そう言われてみれば、エレベーターなどで出会う、
住人たちのほとんどが、お年寄りばかりだ。
守衛のおじさんでさえ、どう見ても80歳くらいである。
小さな古いマンションなので、若い頃に家を買い、
それから長く住み続けている人が多いという。
⇑ 今年、初ライチ。
というわけで、
最近、何かにつけ、ハート、ハートとうるさい僕であるが、
ハートを感じていれば罪悪感を直視しなくてもよいのか、
と言うと、そうではない。(少なくとも僕は…。)
僕の場合、みぞおちに感じる罪悪感を直視し、
それが無かったと確認されると、ハートが上がってくる。
例えば、先週も元コンババ部長から電話がかかってきて
「いま、香港支社の現金出納帳を見てるんですけど、
この3,000ドルの支払いは何ですか?」と訊かれた。
「それはICチップの開発費で稟議も通ってますよ。」と僕。
「あ、そうなんですね。稟議も通さずに支払ったのかって、
ちょっと怒ってやろうと思って電話したんですよ。」
と彼が言うと、電話の向こうから数人の笑い声がした。
その瞬間、僕の中に〝みんなの前で侮辱された〟
という、激しい怒りが込み上げてきた。
⇑ 家からタイムズスクエアまで徒歩一分ですの。
おーっほほほほ!
あ、この感じ方はおかしい、と一瞬立ち止まる。
それから、
自分で勝手に歪めてしまったハートを神へと返し、
最後は、一瞬静まり、ハートの声だけに耳を傾ける。
そこから、ハートに繋がる。
自我の投影として罪悪感を直視するのではなく、
自分の心の中の神の反映として世界を見るのだ。
みんなの前で侮辱された、という罪悪感を観るのではなく
神の想い(ハート)の中で歓ぶところから出発することで、
はじめから罪はなかったことを確認してゆく。
解釈無しに、ただ歓んでいるのだ。
⇑ かつおのたたきと生ビール。神だぁー!
というわけで、金曜の夜はベトナム留学時代の友人と、
また、土曜の夜は25年来の日本人の友人と、飲んだ。
先ずは、それぞれの友人を僕の家に招いてワインを飲み
その後、近くのレストランへと夕食に出かけた。
その反動で、今日、日曜日は、ずっとお籠り状態だった。
ホームドラマ専門チャンネルで 『金曜日の妻たちⅢ』
を一挙放送していたので、イッキ見してしまった。
とまあそんな感じで、今後は多くの神の子達を家に招き、
たくさん神の反映を見てゆくつもりである。
友人の誰々さん、とか、経理課の山田部長が、とか、
お気に入りの服とか、どこどこのスイーツとか、
もう、そんな風に人や物事を見ることはない。
全てを神の心の反映として観てゆく。