香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

こじらせ兄弟

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みんなの前で自分の本音をさらけ出すのが怖い、

 

自分が思っていることを相手にぶつけるのが怖い

 

いやです、やめてください、と怖くて言えない、

 

本当は、怖さ、不安、怒り、様々な思いが、

 

自分の中で交錯しているのに、

 

この世界は幻想なのでただ見過ごすだけだ、とか

 

ただ沈黙、ただ大丈夫、相手も神の子で愛なんだ

 

赦すのは自分の心の中だけなのだから、

 

何かをする必要はない、というフィルターで、

 

自分の中の真の叫びである〝こわいよ~っ〟を

 

どこまでもスルー(隠ぺい)してしまうことがある。

 

 

中でも、日本人に多いパターンに、

 

〝ちゃんと察しなさいよ症候群〟というのがある。

 

「私があなたに対して何を求めているか、

 

 私のこの不機嫌な態度を見れば分かるでしょう、

 

 なんで理解できないの、はやく察しなさいよ」

 

と、ぞんざいな態度を取ったり、無視したりする。

 

それで、どうしたのかと訊かれると、

 

「別に」と答える。

 

 

オイ、オイ、オイ、ちょっと待ったあー、である。

 

相手は超能力者ではないのだから、

 

テレパシーであなたの心を読み取れる筈もなく、

 

従って、私はこうしたい、こうしてほしい、と、

 

きちんと言葉で伝えなければ始まらない。

 

 

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👆 最近朝はプロテインバーで済ましている

 

 

レストランで、お水が欲しければ、

 

店員さんに手を挙げて、

 

お水をください、というだろう。

 

どこの誰が、忙しそうに動き回る店員さんに

 

ガン飛ばしながら、気づけよ、とやるだろうか。

 

「すみません、お水下さい」

 

と、大声で言わなきゃ伝わらないのだ。

 

 

これと同じことを、聖霊兄貴にもやっている。

 

 

「お水が来なくても、お前はすでに天国にいる」

 

「お水は幻想だ、何も起こっていない」

 

「店員さんも神の子で愛です」

 

「本当は店員さんから大切にされたかったんだ」

 

「お水下さいと言えないのは神を恐れてるから」

 

 

ウザい上司、押し付けてくるお姑さん、

 

自分勝手な夫や否定してくる妻、などなど、

 

お水下さい、と、自分が言わないのが原因なのに

 

コース定義を使ってああでもないこうでもない、と

 

自分の心の中ばかりを赦そうとした結果、

 

赦せない自分を責めることになってしまっている。

 

こうして責められた自分の思いは、

 

再び、上司、友人、妻、夫の口や態度を通して、

 

自分に会いにやって来る。

 

 

なんのことはない、

 

目の前に現れている赦しどころの兄弟たちは、

 

ちゃんと声をかけられようと、自分が自分に、

 

様々なジャブを繰り出しているに過ぎない。

 

なぜなら、見えている世界は、

 

自分の心の中を映し出しているので、

 

見えている世界が居心地悪いのは、

 

心に何か隠している者があるからなのだ。

 

なので、相手に何かを伝えているようで、

 

本当は自分の心に伝えている。

 

だから、伝えることで心が癒されるのだ。

 

 

想いは言わなきゃ伝わらない。

 

 

 

変化を許す

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昔、アンフィニ時代に、あやこさんが、

 

我々は一秒間に何億回も次元シフトしている、

 

と言っていたが、今、やっと、その意味が、

 

体感ベースで理解できるようになった。

 

 

仕事中も含め、一日のほとんどの時間を、

 

今、この瞬間に気づいている状態で

 

過ごすようになってくると、

 

今この瞬間に起きている事や、

 

今この瞬間に感じているこの想いや感情は、

 

あくまで今この瞬間だけのものであり、

 

3秒後には全く別の状態になっていても

 

何ら差し支えないという感覚になってくる。

 

要するに、今と、次の瞬間の今には、

 

なんの関連性も継続性もなく、

 

ぶつ切りのフィルムの様な状態で存在しており、

 

明日も、今日と大体同じような一日を送る、とか、

 

今月の収入がこれだけだったので、

 

多分来月もこれくらいだろう、と言ったような、

 

過去や今の延長線としても未来が、

 

跡形もなく消えてしまうのだ。

 

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別の言い方をすれば、現実のフィルムは、

 

一コマ一コマが独立していて繋がっていないので

 

次の一コマで、突然、大金持ちになるのも、

 

完全に普通の事としてアリだ、と捉えられてくる。

 

 

例えば、今あんなに不機嫌なあの人も、

 

それは今のひとコマでそうなのであって、

 

次のひとコマでは全く別人になっている、

 

というふうに思える。

 

すると不思議なことに、しばらくすると、

 

本当に相手が別人のように変わっている。

 

 

新しい会社で働き始めて1カ月になるが、

 

会社を出てバスに乗った途端、

 

自然と、会社での事は一切忘れてしまい、

 

同僚の顔さえ思い出さなくなっている。

 

何て言うか、会社を出た瞬間、フィルムのコマが

 

全く別の場面に切り替わってしまったのだ。

 

 

「一年後も多分この会社にいるだろう、

 

 なぜなら、他に就職口なんかないし」とか、

 

「この苦しい経済状態は今後も続くに違いない、

 

 だって、他に思いつく打開策もないし」とか、

 

「あの嫌な人は明日もきっといるはずだ、

 

 何より、いなくなる理由なんてないし」

 

といった、思い込みと決めつけと勝手な解釈で、

 

全てのコマに同じ映像を焼き付け、

 

変わることを拒否している。

 

 

しかし、良い事は起こらないと信じているのに

 

悪いことは起きるに違いないと信じていて、

 

だったら今の〝最悪より少しマシ〟な状態の方が

 

まだ安心だと、本来ぶつ切りであるはずの

 

一コマ一コマを同じ絵づらで塗りこめ、

 

変わることを拒否してしまう。

 

 

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この夢の世界から永遠に去るにはまず、

 

夢の世界が神の愛モードに〝変化〟することが

 

必須になってくる。

 

なのに僕たちは、神を求めながらも、

 

変わることを拒否することで、神に抵抗している。

 

 

世界を楽しむことが目的ではない、

 

現実で幸せや歓びを感じなくてもどうでもいい、

 

真の目的は世界を終わらせることなのだから、

 

というコース兄弟も多いが、ノー、である。

 

もう、何度も何度も何度も何度も言うが、

 

ちゃんと赦せていれば、

 

世界が神の歓びで輝いて見えるはずだからだ。

 

もしそうでなければ、

 

何かが〝おかしい〟と思え!

 

 

奇跡講座の最終段階である〝幸せな夢〟でさえ

 

その幸せを自分に許可しなければ、

 

映し出されるコマは絶対に切り替わらない。

 

そして、幸せな夢の一コマは、

 

次の瞬間のひとコマかもしれない。

 

 

幸福論(6月10日)

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(この記事は6月10日当時に書かれたものです)

 

今日、トレーナーと筋トレをした。

 

本当はもう、ブログを閉じた時点で、

 

トレーナーとの契約も終了しようと思っていたが、

 

新しい職場が、一日中デスクワークなので、

 

これでは運動不足で体に良くないと思い、

 

継続することにしたのだった。

 

 

筋トレの最中は、

 

ずっとトレーニングをし続けるわけではなく、

 

メニューとメニューの間に、

 

高重量を挙げて疲れた筋肉を回復させるための、

 

インターバルという、短い休憩の時間がある。

 

その時に、トレーナーと雑談をしたりするのだが、

 

「幸せだなあ、と感じる時ってどんな時ですか」

 

と、今日、何気なくトレーナー氏に訊いてみた。

 

彼はしばらく考えていたが答えられなかった。

 

それからまたトレを開始したが、

 

その間も彼は、何やら考えこんでいるようだった。

 

幸せを感じる瞬間がどんなときかを聞かれて、

 

答えられない自分にショックを受けているようだ。

 

 

二回目のインターバルの時、

 

「星谷さんが幸せを感じるのはどんな時ですか」

 

と聞かれ、僕はすかさず、今この瞬間だと答えた。

 

「例えば、今こうして、あなたの指導を受け、

 

うれしいなあ、と思いながら筋トレをしているし、

 

通りを歩いていて、可愛い女の子に遭遇したら、

 

ああ、幸せだなあ、と思いながら通り過ぎるし、

 

新しい職場で出会った新しい同僚たちに対しても

 

出会えてよかったなあ、と思いながら、

 

仕事をしているので、常に今が幸せなんですよ」

 

と答えた。

 

人は、お金がいくらあれば幸せだ、とか、

 

子供がいてこそ幸せだ、とか、

 

この仕事で成功してこそ幸せだ、と、

 

未来に来るであろう幸せに執着するあまり、

 

今ここに在る幸せに気づいていない、とも述べた。

 

そして、

 

お風呂に入っている時に、ああ、極楽、と感じたり

 

レストランの応対やマッサージなど、

 

心のこもったサービスに感動したり、

 

逆に、ふざけんなというような、理不尽な出来事に

 

思い切り腹を立てることで、

 

幸せに対する感度が増すのだ、と…。

 

トレーナー氏からは、仙人みたいだ、と言われた。

 

 

神は、いま、ここに顕われているのに、

 

僕たちはそれに全く気づいていない。

 

もし仮に、自分がとてつもなく大きな幸せ、

 

と呼ばれるものを手に入れたとしても、

  

やはりその幸せも、

 

〝その時の今〟を味わっているに過ぎない。

 

 

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👆 ジムが入っているビルのエスカレーター


 

 

結局、幸せって、

 

それを味わったり感じたりする感性がないと、

 

どんな幸せでも、幸せだと捉えられない。

 

本当はとても自分のことを心配してくれて

 

言っているのに、幸せに気づく感性がないと、

 

本当にごちゃごちゃうるさい、となってしまう。

 

反対に、幸せを味わう感性を持っていると、

 

満員電車で隣の人のカバンがぐいぐい当たっても

 

ああ、神にツンツンされている、となったりする。

 

(👆 はい、これは僕です!)

 

そして、そういう状態になると、不思議なことに、

 

カバンがぐいぐい、という現象が、

 

二度と起こらなくなるのだ。

 

 

なので、日ごろから、周囲にあって今もある、

 

愛や歓びや感謝を感じる訓練をする、

 

それが神に気づく、ということである。