(この記事は6月10日当時に書かれたものです)
今日、トレーナーと筋トレをした。
本当はもう、ブログを閉じた時点で、
トレーナーとの契約も終了しようと思っていたが、
新しい職場が、一日中デスクワークなので、
これでは運動不足で体に良くないと思い、
継続することにしたのだった。
筋トレの最中は、
ずっとトレーニングをし続けるわけではなく、
メニューとメニューの間に、
高重量を挙げて疲れた筋肉を回復させるための、
インターバルという、短い休憩の時間がある。
その時に、トレーナーと雑談をしたりするのだが、
「幸せだなあ、と感じる時ってどんな時ですか」
と、今日、何気なくトレーナー氏に訊いてみた。
彼はしばらく考えていたが答えられなかった。
それからまたトレを開始したが、
その間も彼は、何やら考えこんでいるようだった。
幸せを感じる瞬間がどんなときかを聞かれて、
答えられない自分にショックを受けているようだ。
二回目のインターバルの時、
「星谷さんが幸せを感じるのはどんな時ですか」
と聞かれ、僕はすかさず、今この瞬間だと答えた。
「例えば、今こうして、あなたの指導を受け、
うれしいなあ、と思いながら筋トレをしているし、
通りを歩いていて、可愛い女の子に遭遇したら、
ああ、幸せだなあ、と思いながら通り過ぎるし、
新しい職場で出会った新しい同僚たちに対しても
出会えてよかったなあ、と思いながら、
仕事をしているので、常に今が幸せなんですよ」
と答えた。
人は、お金がいくらあれば幸せだ、とか、
子供がいてこそ幸せだ、とか、
この仕事で成功してこそ幸せだ、と、
未来に来るであろう幸せに執着するあまり、
今ここに在る幸せに気づいていない、とも述べた。
そして、
お風呂に入っている時に、ああ、極楽、と感じたり
レストランの応対やマッサージなど、
心のこもったサービスに感動したり、
逆に、ふざけんなというような、理不尽な出来事に
思い切り腹を立てることで、
幸せに対する感度が増すのだ、と…。
トレーナー氏からは、仙人みたいだ、と言われた。
神は、いま、ここに顕われているのに、
僕たちはそれに全く気づいていない。
もし仮に、自分がとてつもなく大きな幸せ、
と呼ばれるものを手に入れたとしても、
やはりその幸せも、
〝その時の今〟を味わっているに過ぎない。
👆 ジムが入っているビルのエスカレーター
結局、幸せって、
それを味わったり感じたりする感性がないと、
どんな幸せでも、幸せだと捉えられない。
本当はとても自分のことを心配してくれて
言っているのに、幸せに気づく感性がないと、
本当にごちゃごちゃうるさい、となってしまう。
反対に、幸せを味わう感性を持っていると、
満員電車で隣の人のカバンがぐいぐい当たっても
ああ、神にツンツンされている、となったりする。
(👆 はい、これは僕です!)
そして、そういう状態になると、不思議なことに、
カバンがぐいぐい、という現象が、
二度と起こらなくなるのだ。
なので、日ごろから、周囲にあって今もある、
愛や歓びや感謝を感じる訓練をする、
それが神に気づく、ということである。