↑ 実家近くで祀られているキリシタン地蔵
大阪の実家でうだうだしている。
それでも先週の金曜日は、
人で混みあう三連休の前に、ということで、
朝から、散髪へ行き、銀行へ行き、
ゴールドジムで筋トレをし、大学時代の友人に会い、と、
いろいろやった一日であった。
こういう、家の周辺をあちこち飛び回るのって、楽しい。
いつでも家に帰って来られるから…。
まず、家の近所の床屋で、
今、流行りの滝廉太郎カットにしてもらった。
音楽の教科書に載ってる『荒城の月』の滝廉太郎である。
髪の分け目を剃刀で、5mmほどの太い線にし、
両端をバッサリ刈り上げたあと、ジェルで整える。
これで丸メガネ(僕の場合老眼鏡)を掛ければ、
明治維新の人みたいになる。
いま、七三分けが流行っているらしい。
ジムでは、胸と肩を集中的に鍛えた。
筋肉をデカくするために一生懸命食べていたのだが、
ここのところ忙しくて少し痩せてしまった。
もりGさんからも、母親からも、痩せた?と訊かれたし…。
その後、大学時代の友人と会ったあと、
梅田のカフェでひとりパソコンを打っていた時、
またまた、大きな知覚の変容が起きた。
↑ ちんこすこうの中にカルタが入っていた。
この他にも、寝耳にちんこ、とか、
出るちんこは打たれる、とか、
身から出たちんこ、と、いろいろあるらしい。
〝肉体としての誰か〟が完全に消失してしまった。
別の言い方をすれば、
肉体の中に〝誰か〟を見い出せなくなってしまったのだ。
どういうことかというと、
自分の父母、会社の同僚、コース兄弟、道行く人々、など
これまで、そこに確固たる個性とアイデンティティがある、
と信じて接してきた誰々さんが、
本当は、ただ表面的に、笑ったり、動いたり、喋ったり、
何かをしているだけの〝生物的存在〟に見える。
これまでは、その人が幻想だ、と理解していながらも、
それでもやっぱり、もりGさんはもりGさんであり、
もりGさんという固有の人格と意識をもった人物が、
そこに存在する、として話していた。
それが突然、
目の前の誰々さんという肉体の中には何も無く、
自分の母親の肉体と接していても、
真の母親の魂や生命がごそっと抜け落ちている。
ただ、母親のように振る舞っている何か、がいるだけ、
と知覚される。
確かに、先週の沖縄リトリートが終了するくらいまでは、
相手は自分の心の中に顕われた自分である、
と理解しながらも、
まだ、コース兄弟の誰々さんがあーした、こーした、と、
肉体としてのその人をリアルに感じて話せていたが、
それが今では、何とかさんという個人が消失し、
実体のない存在となってしまっている。
↑ 商店街が好き!
それにしても、数日単位で見え方が変わってゆく。
今年10月の一瞥体験で、
〝自分も世界も無かった〟という理解が起こり、
その後、見えているこの世界が、
〝自分の心の中そのものだった〟ことを悟り、
続いて、自分の心の中に顕われる兄弟たちに、
次々と無罪を差し出していくうち、世界が変容を起こし、
そして先週、この夢の世界全部を聖霊に返した途端、
全てがここにあった、自分はここに全部持っていた、
と智る体験が起こった。
それで今回、肉体としての兄弟すらでっち上げで、
ただの〝口パクぜんまい仕掛け人間〟だったことを
〝真に〟実感するに至った。
多分、これからも僕は、
普通に誰かと話し、行動し、交流を続けてゆくだろう。
しかし、もうそこに、名前を持った誰々さんは存在しない。
そう言えば、数年前にも、
これに似たような感覚を覚えたことはあったが、
今回のは、この時よりもっと強烈で、確固としている。
肉体から完全にその人が脱落し、消失してしまっている。
肉体は幻想だ、肉体としてのその人は存在しない、
などと、普段言いながらも、
バリバリ肉体の〝その人〟を、誰々さんだとして話していた。
なんのことはない。
僕たちは、騙されていたのだ。
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