先週木曜日は、香港支社が部材を購入している会社の、
新年会に参加するため、深圳(シンセン)へ行って来た。
ここの社長は、当時の深圳工場で購買部長だった人で、
深圳工場閉鎖後に起業し、うちと取引するようになった。
実は、ふぁちゃんも、この会社にデスクを借り、
現在、タダで居候させてもらっている。
新年会は、昔、深圳工場があった龍崗(ロンガン)の、
5つ星ホテルで行われた。
以前、深圳工場に勤めていた人たちも何人か呼ばれ、
何と、ヒトラーの生まれ変わりである(らしい)、
あの台湾人総経理も来ていた。
彼はいまドイツに住み、たまたま、
何かの手続きをしに深圳へ来ていたところを、
WE CHATつながりで、参加することになったのだという。
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懐かしい顔ぶれを前に、本当に楽しい時を過ごせた。
ひと昔前の中国では、乾杯、乾杯で、そのたびに、
度の強い中国酒を一気飲みせねばならなかったが、
いまはもう、そんな野暮な習慣は無くなり、
皆で会話を楽しみながら、ワインやカクテルを飲む。
どうせ酔っぱらうから、と、
会場のレストランが入っているホテルの部屋を予約した。
おかげで、昔の仲間たちと、夜遅くまで心置きなく、
騒ぎ、語り合うことができた。
お酒を飲むと突然人が変わったように豹変したり、
女性や子供に暴力をふるったりする兄弟もいるが、
僕の場合は、酒を飲むと、逆にとてもハッピーになる。
また、たくさんの事を語り合いたくなり、もちろん、
自分が言ったことや、したことも、ちゃんと覚えている。
だが、酒は飲んでも、聖霊兄貴といつも一緒にいる。
決断の主体が聖霊を選び直して、分離は起きてなかった
と、父(神)の方を向いている状態に留まっていると、
兄弟たちが、自分と同じもの、果ては神と全く同じもの、
というふうに思えてくる。
ましてや、同じひとつの神の子である兄弟たちを、
裁いたり、咎めたりすることなど、できるはずがない。
一緒に飲み、語り合っている兄弟たち全員が、
無罪性で輝いている。
みんなが自分であり、自分がみんなで、
誰も咎められるような罪など犯していない神の子だ。
父はこの世界を造っておらず、認識してはいないけれど、
絶対に、父は、聖霊を通して僕たちと一緒にいる。
その父の愛(ハートの想念)を感じた瞬間、
何とも言えない、深く安らかな悦びが込み上げてきた。
その愛は、自動的に兄弟たちへと波及してゆく。
みんな神の中にいて、とっても幸せ。
コースをやってるとか、そんなことも関係ない。
以前、
「この世界はなんて素晴らしい世界なのだろう!」
と、あなたが思っているとしたなら、それは、
「神のいない世界はなんて素晴らしい世界なのだろう」
と言っているのであり、その自分は狂っているのだ、
と自覚しなさい、というワプニック氏の言葉を紹介したが、
この言葉は、この幻想世界(自我の世界)が創り出す、
個別の愛や、偽の平安に対して述べている言葉であり、
決して、神の愛がこの世界に延長された結果としての、
真の愛や、平安のことを言っているのではない、
と、今なら、はっきり区別することができる。
だから〝神経由〟以外のものがきたとき,
咎めや裁く気持ちが浮上してきたときには、
「警戒せよ!」と、即座に頭の中でアラートが鳴り響く。
それで、はっ、と真の自己へと戻り、聖霊を思い出す。
近頃では、人より早く電車に乗ろうとしている、とか、
これは身体にいいからやっています、とか、
これはどこどこのプレミアチョコだ、とか、
あの人は銀行員で男で既婚者の山本さん、とか、
そういう意識の動きにまで、アラ-トが鳴るようになった。
そして、兄弟たちとの宴会はただの記憶へと変わり、
あくる朝、目覚めた時には、すでに10時を過ぎていた。
そこからタクシーで羅湖の国境まで行き、
香港支社へ戻り、一人、残務整理をする僕であった。