香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

あのころ

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↑ 西九龍駅からの風景

 

今日は、広東省の佛山へ日帰り弾丸出張に行ってきた。

 

佛山工場の国税抹消手続きがまだ終わっておらず、

 

その話し合いをするため、地元の会計士を訪ねたのだ。

 

佛山工場を閉鎖したのが2017年8月だったから、

 

もう、かれこれ2年近くの月日を経たことになる。

 

 

もう一度、あの頃の記事を読み返してみると、

 

その時代を懸命に赦している自分がいた。

 

当時、自分が何を隠しているのかを見せてくれ、

 

赦しが完結すると同時に消えて行った兄弟たちには、

 

本当に感謝しかない。

 

僕がいま、比較的容易に決断の主体まで戻れるのも、

 

赦させてくれた兄弟たちのおかげだ、と言える。

 

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二時間ほどで打ち合わせを終え、

 

去年開通したばかりの高速鉄道を試そうと、

 

社用車で広州西駅へ向かった。

 

切符売り場を探すが、駅があまりに広すぎて、

 

どこに何があるかが全く分からない。

 

そこらにいる人に訊きまくり、行列に並んで、

 

なんとか切符を買うことができた。

 

 

速い、速すぎる。時速400キロ出てる。

 

これまで2時間半かかっていた広州 - 香港間が、

 

たった50分で着いてしまった。

 

中国側の出国手続きも、全て香港側で行なうため、

 

中国の公安の制服を着た警官を香港側で見た時には、

 

ちょっと違和感、複雑な気分になる。

 

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↑ 香港行きの列車を待つ人々 

 

このように、現実世界は、時事刻々と変化してゆく。

 

それで、最近、ようやく納得したのが、

 

幻想のカタチが変わることに意味はない、ということだ。

 

 

どういうことかというと、

 

例えば、お金のない人が、何かのきっかけで、

 

突然お金持ちになったとする。

 

それを、決断の主体から観ていると、

 

お金が無い、という幻想の形態が、

 

お金がある、という別の幻想の形態に変化しただけだ、

 

というふうに捉えられてくる。

 

一つの幻想が、別バージョンの幻想に移行しても、

 

どちらも同じ幻想であり、従って、実在から見れば、

 

両者には結局、何の差異もない、と知覚されてくるのだ。

 

 

別に、この世で幸せになるのを否定する訳ではないが

 

この世のレベルでの変化は真の変化ではない。

 

真の変化は心のレベルでのみ可能だからだ。

 

 

なぜなら、この世の幸せは一時的なものであり、

 

どんなに素晴らしい時間を過ごせたとしても、

 

また、どんなに夢が叶い、幸せになったとしても、

 

幻想は必ず別の形態に変化するし、分離をする。

 

よって、次の瞬間には別のモノになってしまうものに、

 

意義を見出すことは不可能である。

 

 

「別に幻想レベルで幸せであってもいいじゃん。

 

    この世界での愛や調和を感じて何が悪い。

 

    だって、もともと神の子には罪など無いのだし、

 

    必要な赦しは、聖霊が差し出してくれるのだから。」

 

 

全くその通りである。

 

しかし、自我の世界での苦しみと幸福、葛藤と平安は、

 

変化することに於いて、同等であるが故に幻想である。

 

なので、実践を続けていくと、いつかは必ず、

 

私の愛、私の子供、私の家、私の大好きな仕事、などを

 

ひとつ残らず、手放してゆく時が来る、と断言できる。

 

なぜなら、これらを持って、戻っては行けないからだ。

 

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僕の場合、

 

決断の主体から、ハートのエクスタシーに入るたび、

 

もう実存だけでいい、早くこの幻想の牢獄から出たい、

 

と心底思う。

 

 

この世界の幸せも、愛も、調和も、必ず最後は分離する。

 

なので、今の僕には、そんなものはもう必要ないので、

 

完全に〝ひとつの心〟(原因)へと戻り、

 

聖霊と一体となって、天国へ戻る道を選択する。

 

 

もちろん、日常では、たくさんの葛藤が上ってくる。

 

でも、それも、僕に観とめられるために出ている。