今年から香港のIDカードが一新されるため、
今日は、新しい香港IDを受け取りに、
チンチン電車に乗って、ワンチャイまで行ってきた。
チンチン電車に乗るのは本当に久しぶりだ。
レトロ感漂うワンチャイの街並みも懐かしい。
夏も過ぎ、これから過ごし易い季節になるし、
休みの日は、家にばかり閉じこもっていないで、
もっと香港の街を散策してみよう、と、
思いを新たにした次第である。
話は変わって、
聖霊の声を聞くとか、聖霊の声に耳を澄ます、と言うと、
聖霊から何かのメッセージを聞くような印象を受けるが、
僕の体験から言うと、
聞くのは言葉ではなく、神や聖霊の〝感じ〟である。
僕がここのところ、
神だぁー、ハートだぁー、と、わーわー言っているのは、
神がいる感じ、愛の想念の律動、感謝で切ない気持ち、
神の認識そのものとして世界の中に存在することであり、
指示や直感を聞いて行動する、という意味ではない。
なので、この天国の〝悦〟(エクスタシー)の感覚は、
〝完全なる抽象〟であり、言葉では表現できない。
ただ、理解して、その理解の中で歓んでいるだけである。
ちょっとベタな言い方をすると、
夕焼けの美しさ、誰かの小さな親切、美味しい食べ物、
大好きな人に対する愛おしさ、の背後に流れている、
言葉では表現できない不変の愛と歓びの感覚こそが、
ハートの〝悦〟の感覚であり、神の理解だと言える。
また、別の言い方をすると、
ある出来事を前に、誰かを批判したくなった時、
はっ、と自我の思考習慣に気づいて立ち止まり、
バーンッ、と思考のブレーカーを落として、
批判したり、咎めたりしている想いを遮断した際、
実際には、バーンッ、と自己の解釈を取り下げた時点で、
すでに僕たちは、聖霊の声を聞いており、
聖霊と同じように考えていることになる。
なんのことはない。
自我のおしゃべりに気づいて、それを取り下げた時点で、
すでに自分は聖霊を選んでいたのだ。
⇓ 二年前にはすでに神に気づいていた? ⇓
まあ、僕も長い間、「兄貴!兄貴!」と、まるで、
聖霊という人格が別に存在するかのように扱ってきたが
結局、聖霊は神の想いであり、愛であり、認識だった。
また、それは、神の子である僕自身の想いでもある。
なので、誰かに愛を感じたり、感謝していることが、
すでに聖霊を選び、聖霊の声を聞いていることになる。
自我を捉らえ、これは間違っていると認識した時点で、
すでに聖霊と一体になっていることに〝気づく〟こと、
それが、聖霊の声を聞く第一歩なのだ。