ここへ来て疲労が出たのか、少し身体が重かったので、
今日は外出をせず、実家で終日お籠りをして過ごした。
午後、仏間のカウチに寝そべり、ココアを飲みながら、
ダグラス・ハーディングの『頭がない男』を読む。
建築家ダグラス・ハーディングの伝記的解説書で、
彼の気づきや哲学が分かりやすく説明されている。
自分は一人の人間で、誰もが鏡に映る自分を、
〝わたし〟だと信じて行動しているが、自分が分離した、
死すべき体に閉じ込められている、と信じる時、
わたしは喪失感や孤独感や恐れを感じる。
しかし、彼は、自分には顔がなかったことを発見する。
そこから、
自分の中心は不変でひとつの〝何もなさ〟に在り、
全部であり、中間であったことに気づく。
中でも、
「わたしの中に他者がいて、他者の中にわたしがいる、
実は、他者がわたしであり、肉体の他者を憎むことは、
自分を憎むことと同じである。」
という言葉が印象に残った。
逆に言えば、他者を愛するとは自分を愛することであり、
自分を愛するとは、他者を愛することと同じである。
そうすることで、僕たちは神全体を共有することになる。
「これって、あのAさんBさん高速一人芝居やん!」
と、読みながら思った。
他者が自分に対して表現する言葉、行為、感情などは、
一つの意識、つまり、自分が自分に行なっている。
そのことを認識して、ただ赦し、神の理解を思い出す。
この時の赦しというのは、罪はない、起こってない、
というような、無いものを一旦取り上げてから、再度無い
と、否定してゆくような、言い聞かせの赦しではなく、
それは本当に無かった、ことを初めから知っている赦し、
すなわち、無いもののことをいくら考えても仕方がない、
と、分かっていて、ただその咎めや解釈を取り下げ、
代わりに、神の理解(ハートの想念)を思い出す赦しだ。
身近な出来事を例にとるなら、
今朝起きると、中国の取引先から今日届くはずだった
源泉税減額手続申請書がまだ来ていない、と、
元コンババ部長からスカイプが入っていた。
普段、僕の休暇中には、滅多に連絡してこない彼だが、
来週から中国が国慶節の長期休暇に入るため、
少し焦っているようだった。
ちょっと、ドキドキする。
軽い〝天国⇒地獄 いきなり放り出され感覚〟を味わう。
こういうとき、いくら、起こってない、罪はない、とやっても
僕の場合、余計に焦ってしまうだけなので、、それよりも、
〝本気で神を思う〟方を優先させることにしている。
そして、本気で神を思うとは、
この夢の世界を〝本気〟で否定することである。
〝必死〟で否定するのではなく〝本気〟で放棄する。
それは、世界を知覚していても、世界自体が本当に無く、
放っておけば消え去ってゆくと知っている〝感覚〟だ。
ひとつひとつを夢だ、幻想だ、とやるのではなく、
自分が見ている全体を夢として扱う。
なので、元コンババ部長からのスカイプも現実ではない。
結局、何か他の事をしていて、返信し忘れたのだが、
その頃には、コンババ部長もすでに神となっていた。
まあ、こんな感じで実家での休暇は穏やかに過ぎてゆく。
父も母も穏やかな晩年を迎えている。
もう、幻想の世界で失うことを恐れる必要はない。
なぜならそれは初めから〝本当に〟無かったのだから。