香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

妄想劇場の終わらせ方


昨夜、出張の帰りに、久々にジムで筋トレをした。

ついでにストレッチエリアで、みっちり一時間、

アーナパーナと、ビパッサーナ―と、

ウツボカズラ大放出も行なった。


ウツボカズラ大放出は、

僕が勝手に考え付いた明け渡しのメソッドだ。

体の細胞ひとつひとつから出てくる〝想いのカス〟を

無数の0と1に分解し、

頭のてっぺんから放出してゆく、というもので、

以前、乙女ののりちゃんちで本人にやって見せたら、

背伸びをして大放出した時に、

シャツの間からポッコリお腹がぷくっと覗き、

大笑いされたことがあった。

しかし、今回は低糖質ダイエットで、

きゅっと引き締まったセクシー(?)なお腹を、

手に入れつつあるので、次回帰国した際には、

是非本人の前で、再度披露したいものである。


と、僕のお腹のことはさておき、

これをやると、なぜかとても気持ちがよく、

ヴィ瞑想と組み合わせれば効果はてきめんで、

なぜか、様々な設定やシナリオが、

僕のおなかの脂肪のように消えてゆくのだ。


前々から、嫌な人がどんどんいなくなってゆく、

と何度も書いてきたが、これも、上記の瞑想となにか

関係があるのかもしれないと思っている。


そうはいっても、

瞑想をやっていると、以前ほどではなくなったにせよ、

遠い過去の記憶から、すぐに妄劇劇場へと発展する。

今日も瞑想の最中、何年か前に、他の会社の人が

何人もいる会議の席上で、その当時の上司から、

「もう、きみ辞めれば?」

と言われた事件を思い出した。

そのとき、僕が何かを勘違いして会議で発表し、

それで本人は、冗談のつもりで、

からかうような口調で言ったようなのだが、

当時の僕はもう、みんなの前で侮辱され、

プライドを傷つけられた、と、激しく憎悪した。

もちろん、その場では、そんなことは

おくびにも出せるわけもなく、僕自身もへらへらして、

その場は何事もなく過ぎて行った。

だが、今になって消化されなかった時の記憶が、

澄んだ池に泥水が流れ込むように湧き上がり、

なんで、あの時、じゃあ辞めます、と言って、

即座にその場を去らなかったのかと、今になって、

〝ああしてやる、こうしてやる劇場〟が始まった。


自動反射的に頭の中で展開される憎悪復讐劇に、

みぞおちがギンギン疼き、胸がむかむかしてくる。

いまとなってはもうどうしようもないだけに、

余計妄想の中で当時の上司を半殺しにしようとする。

しかし、途中ハッと我に返り、何やってるんだろ、と

最後まで行く寸でのところで妄想をブロックした。

たとえ妄想であっても、投影してる事に変わりはなく

実際にやってしまったのと同じくらいの威力で、

それと同じものを、現実に投影させてしまうからだ。

なので、始まった時点で、無理やりにでも切る。


その場合、妄想劇場をバシンと寸止めするうえで、

最も有効的なのが、深呼吸である。

何回か、ゆっくりと深呼吸をしながら、

意識を目の前にある風景に戻すのだ。

聞こえている電車の音、眼前のコーヒーカップ、

なんでもいい、平和な今の空間へ、どっこいしょ、と

意識を自分側の〝いま〟へ持ってくる。


そして、思い出している物事にではなく、

肉体に感じている、ゾワゾワムカムカの気持ち悪さ

のみに集中しながら〝これ〟をそのまま放っておく。


やがて、それは上司に対する憎悪ではなく、

神に対する憎悪だったことが見えてくる。

それをただ兄貴と共に見つめ、消えてゆくものとして

出るに任せ、放出させてゆく。

やがて、気づいた。

妄想をしているとき、憎悪で吐きそうになっている時、

怒りで辺りかまわず破壊したい衝動を抑えている時、

耐えられない恐怖と絶望にのたうちまわっている時、

それは、好転反応というか、

消えてゆくからこそ感じる痛みなのだと…。


おかしな言い方だが、苦しいのは、

それが昇華され、消えていっている証でもあるのだ。

だから、苦しみを避けようとする必要はなく、

押しやって忘れようとする必要もない。

いずれにせよ、設定が取り消されるときには、

想定内の起こりうる化学反応なんだと、

じっと観察しながら、相手側に委ね、放っておくのだ。


そうして、最後はウツボカズラ大放出でフィニッシュ。

縦軸に連なる無数のタブの中で、同時に進行している

幻想の〝もう辞めたらバージョン〟が消されてゆく。


それでもまだちょっとムカついている。気持ち悪い。

それでもいい。世界は無いし、何も起こっていない。


現実に正常な知覚に執されてゆく背景には、

内側の憎悪を認識するというプロセスが必ず必要だ。

こうして僕たちは、

この幻想世界から少しずつ目覚めてゆくのだ。