最近ますます、この世界でやりたい事がなくなってきた。
長期の休暇があっても、別段行きたい所もないし、
会いたいと思うような人もいない。
唯一書き続けていた小説ですら、筆を折りつつある。
あんなに好きだったワイドショーやアイドルにも、
全く興味がなくなってしまった。
だからといって、毎日が空しいわけでもない。
まあ、仕事は忙しいので、普通にやっているし、
美味いものは美味いし、来月の一時帰国も楽しみだ。
しかし、それもまた、通り過ぎてゆく夢にすぎない。
外界への興味が薄れてゆく代わりに、
心の中に入って、神の実存を感じていることが、
僕にとっての圧倒的リアルになりつつある。
もう、電車の中や、会社の昼休みや、家にいる時、など、
暇さえあれば、内なる世界を旅している。
例えば、突然、自我の妄想が湧き上がってきたり、
夢の出来事に反応してしまいそうになった際、
さっと、前のめりになっていた意識を背後へと戻し、
〝ひとつの心(意識)〟の位置まで戻ってゆく。
ひとつの心は、普段、肉体の僕として考えたり、
反応したりしている、個の魂(ソウル)としての部分と、
靈(スピリット)の領域との、ちょうど中間の位置にあり、
そこでは全ての兄弟の意識がひとつに集約されている。
実は最近、なぜか、自分の内側(背後)の奥に在る、
一つの心の位置を明確に捉えることができるようになり、
いつでも、その中へ没入することができるようになった。
これまでは、
「まず決断の主体の位置に戻ることが大切です。」とか、
「夢を見ている者の位置から世界を見ましょう。」
と言われたりしても、なんとなく、そういう場所を、
〝想像〟しながらやっていたのだが、しかしいまは、
本当に、そこにその位置がある、と分かる。
これはあくまで僕の場合なのだけれども、
ひとつの心は、身体の前方ではなく、
意識を、背後へ背後へと向かわせた先にある。
誰かを批判したくなった時や、怒りが出てきたとき、
ひとまず立ち止まって、意識を背後へと向かわせる。
やがて、ひとつの心(意識)の位置へとたどり着く。
そこから、更に意識を奥へ奥へと突き進んで行くと、
今度は靈(スピリット)の領域へと達する。
すると、神の実存(愛=歓び)の感じが、
一気に、ぐわぁーっ、と押し寄せてきて、
全てが愛一色となり、何もかもが自動的に赦せてゆく。
こういうふうに、ひとつの心の位置から、
前側(目で見ている世界側)に意識を向けると分離となり
後ろ向き(さらに背後方向)へ意識を向かわせてゆくと、
靈(スピリット)=実存の世界となる。
そして、いま、意識が選択しているこの実存の世界が、
現実世界よりも、圧倒的リアル感を持ち始めている。
こうして、いままで曖昧模糊だった、
決断の主体の位置が自分の中で明確になったことで、
赦しが神にまで直結するようになった。
そして、
どこまでも背後を突き進んで神までたどり着くと、
そのままぐるりとドーナツ状に一周して、
今度は、見ているスクリーンの背後から突き抜けるように
前方から神の愛と歓びの波動が、わっ、と押し寄せてくる。
そうなのだ!
後ろの正面は神だったのだ!
というわけで、外界(前方)は、僕にとって、
自分が手放すものだけを見る場所となり、
内面(後ろ側)の方が現実になりつつある。
僕らは、自分が意識の中で、習慣的に選んでいる方を、
実在していると信じることで、それに応じたストーリーが、
自分の夢の世界に投影され、自分に影響を与え続ける。
神の実存を信じ、神へと向かうことで、神の実存が、
自分の夢の世界に影響を与えるようになるのだ。