香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

心にとどまる

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最近ますます、この世界でやりたい事がなくなってきた。

 

長期の休暇があっても、別段行きたい所もないし、

 

会いたいと思うような人もいない。

 

唯一書き続けていた小説ですら、筆を折りつつある。

 

あんなに好きだったワイドショーやアイドルにも、

 

全く興味がなくなってしまった。

 

 

だからといって、毎日が空しいわけでもない。

 

まあ、仕事は忙しいので、普通にやっているし、

 

美味いものは美味いし、来月の一時帰国も楽しみだ。

 

しかし、それもまた、通り過ぎてゆく夢にすぎない。

 

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外界への興味が薄れてゆく代わりに、

 

心の中に入って、神の実存を感じていることが、

 

僕にとっての圧倒的リアルになりつつある。

 

 

もう、電車の中や、会社の昼休みや、家にいる時、など、

 

暇さえあれば、内なる世界を旅している。

 

例えば、突然、自我の妄想が湧き上がってきたり、

 

夢の出来事に反応してしまいそうになった際、

 

さっと、前のめりになっていた意識を背後へと戻し、

 

〝ひとつの心(意識)〟の位置まで戻ってゆく。

 

 

ひとつの心は、普段、肉体の僕として考えたり、

 

反応したりしている、個の魂(ソウル)としての部分と、

 

靈(スピリット)の領域との、ちょうど中間の位置にあり、

 

そこでは全ての兄弟の意識がひとつに集約されている。

 

 

実は最近、なぜか、自分の内側(背後)の奥に在る、

 

一つの心の位置を明確に捉えることができるようになり、

 

いつでも、その中へ没入することができるようになった。

 

 

これまでは、

 

「まず決断の主体の位置に戻ることが大切です。」とか、

 

「夢を見ている者の位置から世界を見ましょう。」

 

と言われたりしても、なんとなく、そういう場所を、

 

〝想像〟しながらやっていたのだが、しかしいまは、

 

本当に、そこにその位置がある、と分かる。

 

 

これはあくまで僕の場合なのだけれども、

 

ひとつの心は、身体の前方ではなく、

 

意識を、背後へ背後へと向かわせた先にある。

 

 

誰かを批判したくなった時や、怒りが出てきたとき、

 

ひとまず立ち止まって、意識を背後へと向かわせる。

 

やがて、ひとつの心(意識)の位置へとたどり着く。

 

そこから、更に意識を奥へ奥へと突き進んで行くと、

 

今度は靈(スピリット)の領域へと達する。

 

すると、神の実存(愛=歓び)の感じが、

 

一気に、ぐわぁーっ、と押し寄せてきて、

 

全てが愛一色となり、何もかもが自動的に赦せてゆく。

 

 

こういうふうに、ひとつの心の位置から、

 

前側(目で見ている世界側)に意識を向けると分離となり

 

後ろ向き(さらに背後方向)へ意識を向かわせてゆくと、

 

靈(スピリット)=実存の世界となる。

 

そして、いま、意識が選択しているこの実存の世界が、

 

現実世界よりも、圧倒的リアル感を持ち始めている。

 

こうして、いままで曖昧模糊だった、

 

決断の主体の位置が自分の中で明確になったことで、

 

赦しが神にまで直結するようになった。

 

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そして、

 

どこまでも背後を突き進んで神までたどり着くと、

 

そのままぐるりとドーナツ状に一周して、

 

今度は、見ているスクリーンの背後から突き抜けるように

 

前方から神の愛と歓びの波動が、わっ、と押し寄せてくる。

 

そうなのだ!

 

後ろの正面は神だったのだ!

 

 

というわけで、外界(前方)は、僕にとって、

 

自分が手放すものだけを見る場所となり、

 

内面(後ろ側)の方が現実になりつつある。

 

 

僕らは、自分が意識の中で、習慣的に選んでいる方を、

 

実在していると信じることで、それに応じたストーリーが、

 

自分の夢の世界に投影され、自分に影響を与え続ける。

 

 

神の実存を信じ、神へと向かうことで、神の実存が、

 

自分の夢の世界に影響を与えるようになるのだ。