以前も紹介したが、徘徊を繰り返す認知症の母と、
その母を介護する娘のドキュメンタリー、
『ママリン87歳の夏』をUSBに入れて何度も見ている。
なぜなら、見れば見るほど、この認知症のお母さんは、
今のボクらの状態そのものであり、娘さんが発する言葉
の一つ一つが聖霊によるものだと実感できるからだ。
認知症を題材にして、神へ戻る小説が書けそうなほどだ。
自分は誰かの何かを盗んだがゆえに、
刑務所に入ってしかるべき人間だと思い込んでいる母に
あなたは泥棒ではないので刑務所へ入る必要はない
と諭す娘、また、自分の家に帰ると言い張る母に、
あなたはもう自分の家にいます、と完全否定をする、
それでも、徘徊してしまう母の後ろを歩きながら、
ここぞ、というタイミングで、母に近寄り、
何してんのん、一緒にはよ家に帰ろ、と話しかけ、
家へとうまく導く娘、これを毎日5回くらい繰り返す。
多分、この認知症のお母さんの中では、
ちゃんと自分だけの思い込みの世界が見えており、
それが真実だと信じているに違いない。
だが、それを娘によって否定されるので混乱するのだ。
娘がいつも使うフレーズは、考えるのはやめなさい、だ。
あなたの考えは全部ボケてるから何も考えなくていい、
あとは神様に全部任せなさい。を繰り返す。
話を聞いた時は一瞬正気に戻るが、すぐ忘れてしまう。
僕達も兄貴の声に耳を傾けたと思ったら、次の瞬間には
そのことを忘れて、夢の世界に埋没していってしまう。
なので、何度も何度も、兄貴の声に耳を傾け、
自分の考えが間違っていることを自覚してゆく。
そういう意味で、起こることを諦観してゆくことは、
戻ってゆくうえで非常に大切だな、と、思うのだ。
(※諦観(ていかん):本質を見極めたうえで諦めること)
こんなことを書いていたら、突然、ドッカーン、と音がし、
外を見ると、道路で普通車が事故を起こしていた。
ドアがひん曲がり、運転手は外へ脱出できないようだ。
やがて救急車やパトカーが来て、運転手が救助された。
こんな事故が起こらないようにするには…、とか、
あの時こうしておけば事故は起こらなかったのに、とか、
これも前世で学び損ねたレッスンのナンチャラ、とか…、
そういうのではく、ただそれは起こっただけ。
そして、本当は起こせてもいなかった。
意識は〝自動車事故が起こった〟と認知していても、
本当は、神の中で起こっていることなので、
それは、ただの認知障害で、
自動車事故ではなく、神だった、となる。
そして、神に気づいた自分が自己なのではなく、
気づかれている神の想いが自己であり、霊であった。
それが〝諦観する〟の本質なのだ。
というわけで、明日からお仕事である。
だが、17日から16日間の一時帰国休暇に入るので、
明日からは、怒涛の日々を送ることになると思われ…。
しかし、それも、神の中だという認識のなかで行われる。
また、たとえ、概念の考えがぱっと出てきたとしても、
見過されるまま、消えてゆくに任せておけば、
実存ではないそれは自動的に消えてゆく。