👆 ラッシュ時の列車内。客はまばらだ 👆
〝誰かを赦すとき、その人が何かをしたからではなく、
実はなにもしなかったからこそ赦すこと。
何もしていない相手を赦すのだから相手に罪はない。
相手に罪がないと思うなら、自分にも罪はない。〟
という 『イエスとブッタが…』の一説を、ふと思い出した。
相手が何もしてはおらず、罪もないのであれば、
相手は実存ではない、ということになる。
そういう意味で、赦しって、赦すべき相手などいない、
ということを知るためにあるのだ、と今なら解かる。
最初に思考があり、それが感情を作る。
葛藤、悲観、判断、批判、といった思考自体は、
ただシュワシュワ勝手に上がっているだけで
最初から実在ではなく、ましてや自分でもないので、
反応せずにただ見送っていればいいだけなのだが、
その思考を〝自分が思っている〟と捉えてしまうと、
無いはずの自己を実存させてしまうことになり、そこから
怒り、悲しみ、動揺、罪悪感、といった感情が生まれ、
その感情が記憶、すなわち過去を形成する。
そうなると次は、
あの時、私は、あいつから、ああいう仕打ちを受けた、
だから、いつかあいつに、こう仕返ししてやろう、といった
未来に対する妄想劇場が立ち顕れてきたりする。
なので、何もしない赦し、というのは、
ただ、在る。
いま、この瞬間だけに在る。
ただ、神が在るだけ。
それしかない。
どんな思考がシュワシュワ立ち上がっていようと、
外でどんな事が起こっていようと、そんなのは無視して、
いま、ここに在る神だけに一点集中で、ここに在る。
やがて、自分が自分を観ているような感覚になり、
最後は、観られている神こそが真の自分だった、となる。
言いようのない歓びと平安に凌駕されたとき、
観ていると思い込んでいるニセモノの自分は消え、
神の悦び(愛)そのものになる。
これはファンタジーではない。本当にそうなる。
実際には、急に神の愛に転換はできないので、
一日の内で、少しづつ、ゆったりした心地よい時間を作り
そこから、在る、だけに繋がる練習をしてゆく。
沈黙して、静かにしていると、本当にその〝感じ〟が
感じられてくる。
それが、何もない赦し、となる。
というわけで、
今日は一日、徹底的に、神に在る、を意識して過ごした。
そうすると、昨日みたいな、
〝事務所で大好き口ばしり事件〟みたいに、もう、
だい好きーっ!が、ほとばしり出てくる。