今日は、ネガティブから神に繋がれ、という話である。
例えば、
すっごく気の合わない、嫌な奴が職場にいるとする。
こちらが何か話しかけても、返事はつっけんどんで、
なぜか自分だけ誘われない、といったような、
表面では見えにくい、微妙な攻撃をしかけてくる。
しかも、職場を仕切っているようなオツボネでもあり、
逆らったら、ちょっとメンドーなことになる。
こんなとき、なんじゃコイツ、といった怒りや、
自分は何を悪いことをしたのだろう、という罪悪感や、
相手から不当な扱いを受けている悲しみ、
今日もまたあいつに何をされるのか、という恐怖、
などで、プライベートまで憂鬱一色になったりする。
これが、スピもコースも何もしていない人だったら、
おまえ、なんやねん、と、真っ向、直接対決をするか、
気の合う同僚に相談するか、占いに行くか、
カラオケにでも行って憂さを晴らしたりするのだろうが、
これがコース兄弟だったら、どうするかというと、
まずは赦す。
自分の中にあると思っている分離の想いを観て、
そこからくる罪悪感を、それは起こって無かった、として、
相手を愛に見れるよう、聖霊にお願いしたりする。
しかし、経験済みの僕が保証する。
すでに、起こってしまった感情を赦すなんて不可能だ。
なぜなら、その時点で、すでに、
怒りや罪悪感を感じてしまっているし、
実際に、恐怖や憂鬱さを実存させている状況下で、
真に赦すなんて無理なのだ。
下手すると、自分をバシバシバッシングしてしまう。
そんなときは、逆から神に行け、である。
一旦、その憂鬱さや無力感をじっと見てみる。
布団を被り、とことん〝嫌な感じ〟を感じ切ってみる。
毒素が体内に広がるような気分の悪さの中、
こんなに苦しいのはなぜなのか、自分はどうしたいのか、
本当は何を望んでいるのか、を見つめ続けたとき、
本当は、その同僚と仲良くしたかったんだ、とか、
本当は、その同僚に認めてもらいたかったんだ、とか、
本当は、その同僚を好きになりたかったんだ、
というようなことが見えてくる。
そして、
その〝同僚〟という言葉を〝神〟に置き換えてみる。
本心では、神に認められ、愛されたかったのだと気づく。
すると、怒りや、恐怖や、悲しみだと思っていたものが、
実は、愛の想念だった、つまり神だった、となる。
この例から何が言えるかというと、
実際的な赦しの一歩は、まず、自分を攻撃しないことだ。
なにがあっても、絶対に自分を責めない。
なぜなら、自分を責めていると思っているが、
実際には、神を責めているからである。
神を責めながら赦すことなんてできるわけがない。
たとえ、どんな怒りがこみあげてきても、
こいつ死ねばいいのに、と思ったとしても、また、
相手に向かってリアル攻撃をしてしまったとしても、
攻撃してしまった自分を決して責めてはならない。
「あーあ、やっちゃった、次からやめよ。」
くらいでオーケーである。
そのとき、その瞬間に
攻撃の思考がシュワシュワ湧いてきただけであり、
攻撃している自分なんて存在しない。
霊(スピリット)である真の自分とは何の関係もない。
要するに、嫌な感じ、は、神への愛の裏返しなのだ。
というわけで、人の多いラッシュを避ける、
という観点から、今日も11時出勤だった。
もちろん、仕事は普通にあるので、時短でも喜べない。
それでも、今の僕は、何かがあっても、無くても、
ただ在る、神に在る、だけなのですこぶるいい感じである。