昨日がバレンタインデーだったことにいま気づいた。
香港のバレンタインは、一般的に、男性のほうから、
好きな女性が働く会社に花を贈り、夕食に誘う。
例年なら、どこのレストランも満員となるはずなのだが、
新型肺炎の影響で、街に人影はまばらだ。
夜、自主トレをしようと近所のジムへ行ってみた。
普段は、マシンの空きを待たなければならないほど、
人でごった返しているのに、今日はなんと、
僕を含め、たったの6人しかいなかった。(数えた)
先週より明らかに、
新型肺炎に対する警戒が強まってるな、と感じた。
でも、ま、いっか。
こうなったら専用プライベートジムを満喫することにする。
マシンやベンチも使い放題なので、ここぞとばかりに、
〝食いだめ〟ならぬ〝鍛えだめ〟をしておくことにした。
金曜日に会社で起こった出来事を書いてみる。
この日も僕は、昨日に引き続き、会計事務所が作成した
税金申告書の内容をチェックしていた。
その中で、見覚えのない数字が出てきた。
調べてみると、フィリピン工場から受け取った売掛金が
245ドル多いことが分かった。
しかも、記帳が去年の三月になっている。
一瞬、この件をどう処理しよう、と考えた。
〝フィリピン側の財務に請求書の金額を確認したのち、
クレジットノートを発行して財務諸表も書き直し…、
ああ、メンドクセー、という思いと同時に、
フィリピン工場側から何を言われるか、という恐怖や、
ミスをした自分への罪悪感がシュワシュワ湧き上がり…〟
なあんて事態には、一切、全然、これっぽっちもならず、
神の化身である兄弟が何とかしてくれるだろう、という、
愛と感謝の想い(神の想い)だけに満たされていた。
兄弟を通して、神の想い(歓びの想い)が伝わってくる。
このような事は起こってすらおらず、本当に無いことを、
神が兄弟達を通して、アリアリと体感させてくれている。
あ、そういえば以前、がんこ寿司の店員さんが発する、
はい、よろこんで!を聞いた時、これ使える、と思った。
そんな失敗をしたら、みんなから無能呼ばわりされるで、
そんなことを言うたら、あの誰々が黙ってへんぞ、
急げ急げ、あの電車に乗らんかったら遅刻やで、
遅刻したら、さぞ、お客は怒るやろなあ、
といった自我の声が聞こえて来た時に、
「はい、よろこんでーっ!」とスルーできる。
「こんな間違いを犯して、みんなから責められるでぇー。」
👉 はい、よろこんで! どうぞどうぞお責めください。
「そんなことしたら、あの人、怒るやろうなあ。」
👉 はい、よろこんで! 思う存分怒られます。
「あーあ、やっちゃったね。もう終わりだね。」
👉 はい、よろこんで! 終わって全然ケッコーです。
てな具合である。
そうやって、がんこ寿司スタンスでいると、面白いことに、
なぜか、実際には自我の言っているようにはならず、
平安と愛に満たされた結果へと好転するから不思議である。
要するに、自我による恐怖劇場に開き直れば、
自我の声を笑い飛ばしたことになり、
自我に変わって神の愛が発露しだす。
だれもかれもが、もう本当に大好き。
会社員の方なら分かっていただけると思うが、
会社で大好きが溢れてるなんて、
イエスが海の上を歩く以上の奇跡だと思う。
ただ、誤解を避けるために言うならば、
自我の妄想劇場であるこの現実を大好き、
と言っているのではない。
薄皮のベールに透けて見える神の想いそのものに、
だいすきー、と感じている。
(※もうこんな注釈、いちいち入れたくないのだが…)
いまの僕にとって、兄弟はみんな、
神の愛を見せてくれる大切な存在になっているので、
何をしているように見えても、愛の反映にしか見えない。
兄弟は夢の中においても僕を助けてくれる愛の存在だ。
ただ、肉体を持って夢の世界を生きている限り、
今後、不安と恐怖がシュワシュワ湧く事もあれば、
コノヤローと思うようなこともあるかもしれない。
それでもいい、と思っている。
どんなことがあっても、
根底を流れる神への大好きは変わることがないから…。