罪悪感をもっとわかりやすい言葉で表現するなら、
〝自分が悪い〟と思う感覚、と言えるだろうか。
自分が悪い、自分が間違っている、という思いが、
自分を咎めたり、相手の攻撃を受け容れたり、果ては
自分が悪い、の裏返しで、相手を責め立てたりする。
その〝自分が悪い〟を、もっと掘り下げていていくと、
〝他者の目〟にたどり着く。
僕たちは、罪悪感を他者経由で受け取っている。
マスクをしなければ、みんなから咎められる、
コロナウィルスに感染したら、皆からバイ菌扱いされる、
だから、感染しないようにマスクをして気を付けよう、
という、公共概念としての〝人の目〟から、
こんなことをしたら、誰々さんからどう言われるだろう、
だから、ちゃんと言い訳できるように、こうしておこう、
みたいな処世術にいたるまで、僕たちは、日柄一日、
人の目、つまり、
人からどう思われるか、を気にして生きている。
また、これはコース兄弟やスピ兄弟の間にも言える。
あの〝先生〟が言ったことを、
自分はちょっと疑問に思ったけど、
みんな頷いているし、これは自分が間違ってるんだ、
みたいな、リトリートあるある、も含まれる。
職場や、親せきや、友人関係を円滑に保つために、
ある程度、人の目を考慮することは必要なことだ。
しかし、他者の目を気にするあまり、
自分の本音を制限するのは自我だ、と思うのだ。
でないと、自己を否定する人生を送ることになり、
それは神を否定している。
じゃあ、どうすればいいんだ、という話なのだが、
まずはともあれ、心の中の、
〝自分のどこが悪い会議〟をやめることである。
人から何を言われようと、どう思われようと、
それが自分の本音に基づいたものなのであれば、
自分は悪くない、と断固として自分を守ってあげること。
社会の常識上、すみません、と謝ったとしても、絶対に、
自分のどこが悪かったんだろう、と責めてはいけない。
それは、神のどこが悪いんだろう、と疑うのと同じであり、
にせものの他者や自己を実在化させることになる。
また、本当に自分が悪い、と思えることなら、
素直に謝り、それなりの対処をすればよいだけの話だ。
本当は、自分が悪い、という思考が、
シュワシュワと湧いているだけであり、ただそれだけ…。
その思考を〝自分が思っている〟と勘違いして、
架空の罪悪感をでっちあげているだけである。
まずは心の中の〝自分攻め〟に気づき赦すことで、
もともと無かった罪悪感を、本当に無かったと理解する。
心の中で自分を責めなくなると、
これまた不思議なことに、ある一定の時差を経て、
外側の世界が穏やかで優しいものに変化してくる。
これはあくまで僕の持論なのだが、
赦せば赦すほど、神に在れば在るほど、
外で起こっている事象が、優しく豊かなものに、
変化してくる。
逆にそうなってこなければおかしい。
〝真の取り消しは優しいもののはずである。それ故に
最初にあなたの絵と交換に与えられるのは、
もっと優しい、別の種類の別の絵である。〟