香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

わたしのどこが悪いのか?

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罪悪感をもっとわかりやすい言葉で表現するなら、

 

〝自分が悪い〟と思う感覚、と言えるだろうか。

 

自分が悪い、自分が間違っている、という思いが、

 

自分を咎めたり、相手の攻撃を受け容れたり、果ては

 

自分が悪い、の裏返しで、相手を責め立てたりする。

 

その〝自分が悪い〟を、もっと掘り下げていていくと、

 

〝他者の目〟にたどり着く。

 

 

僕たちは、罪悪感を他者経由で受け取っている。

 

マスクをしなければ、みんなから咎められる、

 

コロナウィルスに感染したら、皆からバイ菌扱いされる、

 

だから、感染しないようにマスクをして気を付けよう、

 

という、公共概念としての〝人の目〟から、

 

こんなことをしたら、誰々さんからどう言われるだろう、

 

だから、ちゃんと言い訳できるように、こうしておこう、

 

みたいな処世術にいたるまで、僕たちは、日柄一日、

 

人の目、つまり、

 

人からどう思われるか、を気にして生きている。

 

 

また、これはコース兄弟やスピ兄弟の間にも言える。

 

あの〝先生〟が言ったことを、

 

自分はちょっと疑問に思ったけど、

 

みんな頷いているし、これは自分が間違ってるんだ、

 

みたいな、リトリートあるある、も含まれる。

 

 

職場や、親せきや、友人関係を円滑に保つために、

 

ある程度、人の目を考慮することは必要なことだ。

 

しかし、他者の目を気にするあまり、

 

自分の本音を制限するのは自我だ、と思うのだ。

 

でないと、自己を否定する人生を送ることになり、

 

それは神を否定している。

 

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じゃあ、どうすればいいんだ、という話なのだが、

 

まずはともあれ、心の中の、

 

〝自分のどこが悪い会議〟をやめることである。

 

人から何を言われようと、どう思われようと、

 

それが自分の本音に基づいたものなのであれば、

 

自分は悪くない、と断固として自分を守ってあげること。

 

社会の常識上、すみません、と謝ったとしても、絶対に、

 

自分のどこが悪かったんだろう、と責めてはいけない。

 

それは、神のどこが悪いんだろう、と疑うのと同じであり、

 

にせものの他者や自己を実在化させることになる。

 

また、本当に自分が悪い、と思えることなら、

 

素直に謝り、それなりの対処をすればよいだけの話だ。

 

 

本当は、自分が悪い、という思考が、

 

シュワシュワと湧いているだけであり、ただそれだけ…。

 

その思考を〝自分が思っている〟と勘違いして、

 

架空の罪悪感をでっちあげているだけである。

 

まずは心の中の〝自分攻め〟に気づき赦すことで、

 

もともと無かった罪悪感を、本当に無かったと理解する。

 

 

心の中で自分を責めなくなると、

 

これまた不思議なことに、ある一定の時差を経て、

 

外側の世界が穏やかで優しいものに変化してくる。

 

これはあくまで僕の持論なのだが、

 

赦せば赦すほど、神に在れば在るほど、

 

外で起こっている事象が、優しく豊かなものに、

 

変化してくる。

 

逆にそうなってこなければおかしい。

 

 

〝真の取り消しは優しいもののはずである。それ故に

 最初にあなたの絵と交換に与えられるのは、

 もっと優しい、別の種類の別の絵である。〟

 

 

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